作成日: 13/12/30  
修正日: 13/12/30  

かっこわるくて

そこ経由でしか醸せないもの




かっこわるすぎて、本当すぎて、どうにもこうにも身動きがとれないほど困窮しきってしまう
時って人にはあると思います。なんか周期のような見えない何かで、ぐるんぐるんとめぐってくる
感じがします。

弱りきってる時に、正直に真正面からそれを受け止めて、見るも無惨にぼろんぼろんになる人っています。
周りからもあんまり助けがないときもあります。

そんときは、それを受けきっている人の方が、いいような気がします。

なんとかしようとするのもいいですし、見なかった、なかったことにしてもいいです。
起こることは起こっているのでありますから、それはもう「いい」とか「悪い」ではなく、起こるのです。
悲しくても嬉しくても、起こることは起こるのです。

じゃあ、やったもん勝ちか、みたいに短絡しちゃう見方もできますけれど、好き放題に、手当り次第に、な人が
幸せになった風景も、あんまり見受けないのです。私はそもそもそういう人が嫌いなので、どうでもいいです。

むしろ、見通しの立たないさなかにちゃんと身をおいて、やけにならずに、着々としてるのが、なんていいますか
とても「威力のある生き方」に感じるのです。
焦ったり、癇癪を起こしたりと、「見通しが立たない」「無計画」というのは、なにかと感情的にナニゴトかを
発揮してしまいがちなものです。こらえ性というのは、こういった局面でこそ、地味に発揮すべきものです。

なんにもしてない、ってことはむしろないのです。ナニガシカのことはしているのです。
表面に出ているものだけが、その人ではないのです。黙ってる部分も、まだやってないことも、
自分では気づいていないことまでもが「その人」であるのですから、ここ数年の気性やら行いあたりで
「こんな人だ」としておくのは、なんかこう、もったいないんですよね。人って、もっと分厚いんだと思うんです。

かっこわるい思いを経由してる人は、その時は本当に無様で、みすぼらしくて、貧相で、無力で、
居心地の本当に悪いものってのを体感してるから、理屈抜きにそれが分かってるんですよね。
人に伝えたい類いのものじゃないんだけど、それを真正面から「無様に受け取れた」人は、
どこか、気配からも「豊穣感」を私は感じ受けるのです。

根っこが優しい。

無力だし、助けてくれないし、弱っちいんですけれどね、それが「悪い」ってものには映ってこないんです。
そういう「つよさ」 って、人にはあるって思いません?
若いうちはわかんないだろうけれど、なにが満ちてると、人はふっくら生き続けていやすいか、ってのは
年寄りの方がピンときてるじゃない。そしてそれは若い人には語られない。理解するものじゃなくって、
うっすら気づいておくもの、でしかないのだから。

自分のどこが満たしたくて、人は過ごしてるんでしょうね。
私はそのヒントを「かっこわるさ」を囲っている人に予感するのです。
「かっこわるい」に直面した人が、その「負けっぷりのさなかに見かけたもの」を捨てないで、覚えていられると
それが光ることがあります。

よもや負けっぷりのさなかで、砂利を噛む思いでいたときに握ったものに価値なんかあるもんか、と
その人は思ってると思います。
それはかっこわるさの極致で、長居したくない瞬間にしか握れないものだし、通り過ぎたり風化させたりしたいもの
だから、誰も彼もが持っているものじゃありません。
他人が同じ思いをするわけでもないから、唯一無二、その人だけが気づけて握ったナニカ、ですものね。
その人が、そういう性格で、そこに居合わせたことでだけ成立した「かっこわるさ」は、もう誰にも
コピーも再現もなし得ない、圧倒的な存在感です。

そんな理屈の上で、私はかっこわるいのをあんまり嫌とはしなくていいんじゃないかと思います。
普通でいたい、とかもっといい生き方を、ってのも悪くはありませんけれどね、厚みがでやしません。

翻弄されるくらい大きなナニカでボロンボロンになるっていうのは、人生のスパイスです。
そんときはつらいんです。嫌なんです。逃げ出したいんです。こてんぱんです。
でもその「意味」は、「価値」は、まったく真反対の威力をその人に備え付けています。
そういう理屈以外の何かを経由した人は、やっぱり厚いです。
そして厚さゆえにできることが人生にはありますもん。厚さがないばっかりに経由も通過も許されない関所を、
そうした一握りの「ひどい目を知ってる人」ってだけで、スイと通り抜ける瞬間はやっぱりあるもの。

そういう豊かさを私は好みます。

かっこわるい人、負け越してる人、まぁ、しょげなさんな。
目下つらいだろうけどね、そんなこたぁいいんだよ。
目先のつらさに雑にしたり、なにか奮起しないほうがいいことだってあるんだから。
忘れたいだろうし、なかったことにしたいだろうけれど、それも違いますよ。
起こったことは起こったこと。ただ、それに「いい」とか「悪い」、「好き」「嫌」って
いちいちタグ付けはしないでも、結果は巡ってきますんで、せいぜいいい加減にしないよう、
見定めてればいいんです。

いきてるってことはさ、不思議に妙味な味わいを醸してくるときがあります。
そう、それが「かっこわるさ」ってものからの、婉曲的なギフトに、今日の私は見受けたのです。