作成日: 14/03/08  
修正日: 14/03/08  

見ているものが、馴染むので

つっかけひとつ買うのに、しちめんどくせぇこと・ゴタクを並べるワタクシ


司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」より、秋山好古先生のことが大変好きになっておるワタクシなので、
「生活は質素が信条!」としたく、「食器は碗ひとつのみ!」をしようと思うも、それは叶わず、
せめて無駄なものは買うまい、と心に念じておるのに、ついつい買い物を楽しむていたらく。

玄関に靴が4つ並んでいまして、近所用のつっかけが、随分使い込んできたのか、見た目に痛んで
来ていたのですが、私の中の「好古魂」が「使えるうちは買い足さぬ!」と叫ぶので、我慢して
使ってきておったのですが、反面「日々見ているものが、自分の中の感情を強化する」というのも
信じておるので、「みすぼらしい気持ちにいざなものは廃棄しよう」と発奮。偽クロックスもどきを
靴屋さんで買ってきました。(好古魂、またもや惨敗)

日々を過ごしていると、特に忙しく、一生懸命生きて過ごしているときほど、あまり日々のものに
心を使っていられなくなることがあります。日々が忙しいと、それでいいんだと、どこかで自分を
慰め、納得させようとする心情も働きます。

こうも思うのです。
毎日見ているものが、確実に自分自身の感情を、生き様を、強化している、と。

毎日出入りする玄関。毎日会う人。いつも話してる内容。いつも見かける風景。ついつい買っちゃうあれ。
こういう何気ない「いつもの」は、確実に自分の中に擦り込まれ、繰り返しナニカを叩き込んでいます。
なんにもないってことはなく、必ず無意識にも、自分への「擦り込み」が続きます。

つまり、今の私ってものは、「日々の擦り込みの成果」であり、日頃なくして、今の自分なし!なのであります。
つまりつまり、毎日=自分、ですね。
そりゃそうですね。
そりゃそうでしょう。

返せば、「今の自分が不満だ」というのも、日々の自分への仕込み次第で、軌道変更は可能なのです。
勘違いしてはいけませんが「思った通り」ではないのです。「思った通り」ってのは、そもそもあんまり
シアワセッてものとは、チト違うのです。おっとイケネエ、脱線しかかった。

毎日を思い起こしてください。
例えば帰宅後、「1時間」があるとしましょう。
「タブレットでネットサーフィンしてる」人と、「テレビ見て過ごす」人と、「本読んでる」人は
同じ1時間でも、仕込みが異なります。
1日、2日ならさほどの差はない、と言っちゃってもいいかもしれません。

じゃあ1週間を「タブレットで過ごす人」「テレビで過ごす人」「本読んでる人」だけで、もう体や
頭に入ってるものって、違うよねえ、っていうのはうなずいてもらえないでしょうか。

「なにかやってりゃ、気が紛れる」ってのと、「なにかを取込みたい」と願って過ごしてるっていうのとでは
ゴールが違うのは当然です。や、どちらがどう、ってんじゃナシにですね。「日々目にしているもの」が
なおざりにも馬鹿にもできない「威力をはらんでる」ってことです。

繰り返し、繰り返し見てるもの、聞いてるもの、感じてるもの、が強化されます。蓄えられます。醸します。
積もるんですよ。溜まるんですよ。その堆積物の上でしか「判断」しないんですよ。人。

じゃあ、毎日「なにを見続ける事にしようかねえ」ってことです。
自分自身への、図らずも、うっすら期待するナニカは、日々の生活の中に結果の萌芽を見つける事ができます。

不満や不幸を身の回りに巡らせる事もできるでしょう。怒りや憤りで奮い立たせる事もできるでしょう。
幸せなことばかりをネット上に公開する事もできるでしょう。友人があちこちにたくさんいて盛り上げるのも
いいでしょう。

そういうのが、「今の自分」にフィードバックして、今、現在なんですよね。
じゃあ、合点づく、ってことでいいですよね?これ以外はナシにした、って決断ですよね。
自分以外の周りの人にも、自分発信でしてきた情報から判断してもらえる「態度」をとってもらってますよね。
じゃあ、周りの人は、あなたにそぐう対応を、相手側からもフェアに態度で返してくれているはずです。
相手の人たちなりに、「あなたにそぐうもの」を、あなたの周りに配置するでしょう。

そう思うと「今」こそが「自分に相応」なわけです。
いいとか悪いとか好きとか嫌いじゃなくって、「相応」です。
その上で「今、見てるもの」「今、聞いてるもの」「今、考えてる事」「今、感じる事」が
自分にも、周りにも、アナウンスされるんです。

あなたに起こることは、あなたが気にしたことであるし、あなたが気にしたが故に、あなたにとって
幸せを感じさせ、あなたに不幸を感じさせます。つまり、起こる事の多くは、あなたという
アンテナあっての事柄たちであり、意味であり、価値なので、それらは味わうに値します。

「気にもしてない」ことは、だいたい通り過ぎています。起こってても、気にかけられないのですから
存在自体が認知できにくいでしょうし。

本日は「玄関にくたびれたつっかけがある」ことを数年にわたって目視してたことを、今朝になって
「いらんもん、ずっと見てたんだな!」と突然発奮した私が、「そうはいくか!!」と波状的に
発奮しなおして、「明日の私のために!!」と、おニューのつっかけを買いました、というお話。
(しかもナンチャッテ・フェイク・クロックス)

日々の「仕込み」は侮れません。日々が自分を作りますんで。