作成日: 14/04/12  
修正日: 14/04/12  

日常の中のほんわかした生き様

なーんてね


東京に行った時、仲間と電車で移動する事になったのですが、皆は切符など買わずにすーっと改札に
向かいました。私は地方の「manaca」を所持してるのにも関わらず、切符を買いに走り、
「えー?カードないのぉ?」とあきれられました。「あるよー。でもmanaca-」「使えるよー、それ」
うん、知ってます。でも「つかえないよーな気がして」で、券売機に走りました。

理屈上では分かっておるのです。今日だって多治見からの帰りに、駅の立ち食いきしめんコーナーで
お腹を満腹にしようと立ち寄ると、ホラ、券売機はカードで応じられましたもん。肉入りソバ食べましたもん。
おいしかったなあ。

わかっちゃいるのに、いざ使えるときに躊躇しちゃうのも、人らしいなあって思うのです。




若い頃は陶芸とか陶器に興味なんて全然なくって、食器とか近くで買えるじゃん、とか思う類いの人
でしたが、今日は多治見まで陶器を物色しにいそいそ出かける始末。
はて、我ながらどうしちゃったんだろうと、とくと思いますに、結局「近くで買える店」においてある
陶器・食器が「モノタリナイ」んですよね。1、2回使う分にはいんですけど、長く使ってて「飽きのこない」
ものが、身近にあって欲しい、と思うようになったって事だと思います。




「なんでもいい」じゃなくなってきてるってこと。これって頑固になってきてるってことかなあ。
実際陶器まつりでゆっくりあるきながら見つける陶器は選ぶ事が楽しいづくしで、ホクホクしてました。
似た商品一つが、店によって半額であったり、セット売りであったりと、一つ買うにしても楽しんで
いられるわけです。




選り好みしてますから、どれにも愛着がわくのでした。実用品とか装飾品の分け隔てなく、
「われながらいいセンスよのぉ」と悦に入るわけです。ホンワカしてるわけです。

そんでいいのだと思います。
カレー・パスタ皿にちょうどいい、縦長のお皿が手に入ったので、それが使いたいがために、昼間っから
カレー作りはじめたり、パスタソースを吟味しに出かけたり、その道すがら今まで何度も見てたビルの3階に
気になる喫茶店を見つけたりと、こういう面の「フクフクさ」を満たすのって大事だと思うのです。




生きるってのはナニカ?と誰もが若い時に思案をやらかしちゃうと思うんですけど、私がたどり着いた
一つの答えが「洗練されるために生きる」という言葉でした。素敵な響きでした。

長生きしたいなー、とかぼんやりとは思いますけど、「ただ、長かった」ではしょんぼりなわけです。
かといって「毎日が学祭!」みたいなにぎやかし一辺倒な生き方が幸せとはとても思えない。
生きた長さの分だけ、ちょっぴりづつの、小さな洗練なら叶うような気がしたのです。
それならできるかも・・・あ、ちょっとできないときもあるかも・・・でもちょっと、なんだよねえ・・・
じゃあ・・・・できるときもあるかも・・・くらいの引き腰・へっぴり腰な、なけなしの期待を
自分に仕込むのがいいんじゃないかと。




冒頭に挙げた、東京での移動で「manaca」カードを使う事にひるんだくらいの自分のスタンスが
一番しっくりくるのでした。ここで「使えるよね!manaca!」って堂々としちゃう自分は、なんだかもう
気取ってやがるくらいに思うのです。私の「ちょうどいい」ってのは、きっと「少し、ひるんでる」
だと思います。そうすると、焦りも、困りもしません。でも同行してくれる人には、すこしばかりの迷惑を
被らせます。かんにーん。