作成日: 14/04/12  
修正日: 14/04/25  

すみっこを住処とする

下手に右往左往はしない方が吉


大学以降で私と知り合う人は何となく気づいていらっしゃるでしょうが、初対面で比較的「すみっこ」に
いることが多いのです。端っこや隅っこです。壁際や、出口の近くです。
なぜだか分かりませんが、落ちつくのです。居場所っぽいのです。

かといって、遠慮してるとか、演出とかではなく、そこに「居場所感」を強く感じるのです。
リラックスした状態から、はじめたいのです。小学生くらいの時には「また奇をてらって!」みたいな
向きで見られがちでしたし、いかんなーと思おうとした頃もありました。

隅っこからはじめようと、中央から威風堂々とはじめようが、実力があれば同じゴールに出向けます。
スタートラインごときでシノゴノ言うのは、人の世をなめております。

迷った!焦った!このままじゃいけない!と、なまじ「現状分析」なんかをして、「生き方の転向」を
図る人もいます。いけないと思った時点で方向を決め直すのもいいんですが、ワタクシ個人としましては
「そこだけの理由で、ピンポイントの時点での『善し悪し』程度で決めてしまった転向は、広く人生を
見渡してみると、チョコマカと『やり方ばかり変えてばかりいて、実をつけない』結果ばかりが重なる感」を
強く持っています。

一本調子で突き抜けろ、とはいいませんが、器用にやっても、上手くやっても、あんまりよかないのです。
多少の失態や停滞感も「これも自分の取り分」と見込めるくらいのガッツリ感はあった方がいいのではないか、と。

人が一人、この世に生まれ落ちておいて、「なんにもなりませんでした」ってことの方が私は信じにくい。
誰にも、なんにもならなかった人っていないんじゃない?

誰かの子であるし、誰かの友であるし、誰かの夫や、妻や、兄弟や、知人なわけですよね。
で、周りの人は、あなたを見てるし、知ってるし、そぐうものを渡したいと思ってるし、
味わってて欲しいと願ってるとおもうのよ。

その人が「望んでいるもの」を、他人は嗅ぎ分けてくれるけれど、必ずしも「欲しがってるものを与えてくれる」
わけではない。でも「あげたいもの」とか「その人にそぐうもの」は与えてもらっていると感じてます。
自分に放り込まれているものは、あなた以外の誰かじゃなくって、あなたに放り込んでもらったもの。

好きとか嫌いとか嫌とかそーゆーんじゃなくって、まずもらっとくもんだと思うのよ。
「はい」と言って、すっと飲むの。うん、まぁ、逆らって、抗って、嫌がってもいいんだけどね、
でも「あなたに向かって放り込んできたもの」なんだよ、身に起こる事は。

倦怠や停滞は誰だって嫌だし、将来に不安のない生き様を模索したくなるのが人の性ってもんだろうけど、
そこを避けたり見ないで済ましても、「なかったこと」にはならないよね?「避けた」ことは自分で覚えてるし
「見なかった」ことは、かえって「そこに不安がある」と自ら存在をはっきり認知した事になりますものね。
だから最初の「はい」の一言が肝心になってくる。まず、請け負う。手だては請け負ったあとでまかなうこと。

あなたが負いきれないものは、まず放り込まれない。周りの人も、あなたをよく見てるって思うんです。
素養や器量、物腰、発想を予期して、検討して、吟味して、適切な量を、適当な時期に、ポンと渡してきます。
あなたは「周りの人が見立てた分」も、あなた自身として請け負うことをすることで、「そこで一緒に生きる」ことを
許されるし、許したい気持ちも芽生えると思います。

自分が自分らしくあると、その人だけが持つ「予兆」みたいなのんがさ、きらんきらんとしてくる時があるよ。
それは「いつも」ってことはなくてさ、なんか、巡ってくるみたいな雰囲気でやってくるんさ。
全く無自覚であったり、何となく気づいてたりの差はあるにしても、「ナーンモ、ナシ!」を暗に不安として
抱いてたりしないでも大丈夫だと思う。なんかかんか、やっぱり人には何か「ここへやってきた訳」が
あるときちゃーんと分かるときがある。

「自分らしくない!」とか「自分を見失いかけてる!」っていう獏とした不安がさ、今自分を囲んでくれている
現実をぶっ壊しちゃえるくらいパワーを放っちゃうことがあるんだけどさ、台無しにするものの方が、けっこう
大きいんです。安逸に逃げ出したり隠したりしない方がいい。今あるものを「台無し」にしてもなにかするんなら、
覚悟はしておけた方がいい。その時に見えてないものまでぶっ壊しに連鎖がかかるから。修復不能だから。広がるから。
あなたを「あなた」にしてくれてた、あなた以外の人を傷つけるってことでもあるから。

逃げ出す力は、意思や決意なんかよりも、無様にパワー強いから。すっごいから。

隅っこに座る、というのは、私にしてみると「見渡している」んだと思うのです。誰がいて、どんなふうでいて、
さーて、どうしようっかな、って目検討してるんだと。ふわーっとした「全体感」の中で、全体がどの方向に、
どう収斂していくかを、そろりそろりと、おずおずと肚に落としたいんだと思うのです。

大雑把に、ざっくりと、「みんなが・一斉に・お互いに」自分らしくのまんまで、流れ込んでいく方向が
予感したくって。そこでできることを知りたくって。