作成日: 14/07/06  
修正日: 16/06/07  

癌め

父の体から出て行けコノヤロウ


2014年6月初旬、弟から父に肺ガンの兆しがあり、母ががっくりしている。ついては励ましてあげて欲しい旨の
メールが届く。青天の霹靂。タバコも吸わぬ父だから、心当たりがない。
咳が続くからと、かかりつけのお医者さんに診てもらったら、すぐに大きな病院の手配をするから
診てもらえ、と話が進んだようだった。レントゲン等で写真を見ると、右肺の2/3が写っていない。
先生に聞けばそれは肋骨と肺の隙間に体液がたまり、肺を圧迫しているとのこと。それゆえの
咳だったようで、ひとまず脇に穴をあけて体液を吸い出す処置となる。肺ガンか中皮腫の
兆しとのことだったので、その脇の穴から病理検査のために肺近辺の細胞を切り出し、写真も
撮ることに。

後日その説明を受けるというので、両親に同席すると、先生は肺ガンだとおっしゃられた。
レベルは4段階中、最悪の4。手術はできないレベル。仮にやったとしても人道的に許されないような
手術になり、体力がもたないとのこと。

検査入院の後、一旦退院したが、抗がん剤投与とその経過観察のため再入院。抗がん剤もイレッサではなく、
少し強めの薬タルセバから開始。

癌というのは癌そのものは痛いという症状を表さない。ただ、正常な細胞分裂を起こさなくなった
部分があることで、その周りの器官を機能不順に陥らせ、体調を崩していくようなのだ。

ネットで調べると、どうやら「いきなり4段階目」になるという肺ガン率は高いことが分かる。
アスベストを吸ってた訳じゃなくても、イキナリ肺ガンと告知されるのだ。
それでも数年前に比べれば点滴による3~4ヶ月経過観察のいるような、副作用の激しい処方以前に、
「特定の癌細胞の増殖を抑えることで、進行を鈍らせる」抗がん剤が増えてきているのだ。

そんな薬のことを調べてたら、「生存率」と言う言葉がしきりに出てくる。今の今まで、そんな単語
使わないできたのに、突然寿命の話が生活に入ってきたのでびっくりした。

病院で父を診てくれる先生は、とても説明の上手な先生なので、なんでも聞ける。
「完治しますか?」と正直に聞くと「完治はしません」ともいわれる。父が生きていくためには
癌とつきあって生きていくことを意味した。

父としては「あんまり人に言わんでいいでな。もうほうゆう年だもんで」といつも通りに言う。
兄弟にはその旨を伝える。姪や甥が父に会いに病院にいくと、やっぱりうれしそうに父は
笑う。それまで実家で「おおむね家族が揃った」風景を見てきた姪が、病院で少し離れた
ところから家族が喋ってる様子を見て、微笑んでる表情がとても心に残った。
「わたしは(病院に)もっと来たいと思ってるんだけどね」と5歳にしては文句のようなことを
言う姪。ありがとうねえ。

父は咳が出る以外はいつも通りの体調に見える。いったん抜いた肺近くの体液のせいか、一時期は
レントゲンに右肺が写りはじめていた。それでも抗がん剤投与開始のレントゲンでは、またも肺近辺の
レントゲン写真は肺を圧迫しはじめてることを告げる写真になっていた。


そして思った。
父と母は、ずっとはいないんだと。

そして思った。
両親という「あまさ」を。

私にしても、家族のみんなにしてもそうだと思うんだけど、「自分が生きてるための一部」なんだよ。
いなくなったり、亡くなったり、痛がってるのは、想像もしたくないことだし、なんて言うんだろう、
「あまい」のだ。とても他のなににも代え難い「あまみ」がある。それにずっと甘えていられる
うれしさが、欠ける日がくるだなんて考えたくなかったのだと、自分の気持ちを知った。
知ってたはずなのに、びっくりした。その喪失感を思うだけで、情緒がぐわんぐわんと揺れた。
気力が亡くなり、萎えたような過ごし方をしばらく私自身がした。

癌を認めたくない気持ちと、それでも「備え」の諸々を確実にしなくちゃならない真反対の感情を、
否応なく持ち続ける期間は、人の感情を疲弊させる。悩ませ、困惑させ、混乱に陥らせる。
ああ、あああ、こんなに自分は弱かったかと、思い知る。思い知った。

2週間の抗がん剤投与で、経過に激しい副作用、併発しそうな諸症状がでなければ、きっと父は
自宅に戻り、抗がん剤服用(1日1錠)を飲むだけで、日常生活をはじめるだろう。
もう1週間で父は退院すると、昨日母と携帯で話した。

そういえば、父とも母とも話す回数が増えている。私は父も母も好きだ。このふたりの子で
よかった。性格も骨格もふるまいも、考え方も、父と母の間ゆえのものだ。
父は病院でもりもりご飯を食べているという。少し副作用の「吐き気」「下痢」が起こったようだが、
想定内の症状で、事前にそれらを押さえ込む薬で、父は元気なのだ。

先生の診断も実に適切で片っ端から説明してくれる。「包み隠さない」ことで、事後の「処置」を
あくまで患者とその家族の「判断」「決断」の道筋の上で進めるのがイマドキ風なのだと分かる。
だから先生は「今、あなたは病気のここの位置に立ってます」「ここから打てる手だてはこれだけ
あります」「ここから起こりうる死亡事例はこれだけあります」「その上で『生き続ける』確率は
どの薬で~~%あります」と全部教えてくれる。

返せば、それらの手だて以降には、もう手がないことも暗に伝えてきてくれている。
手だては多くない。それでも病院は手を打ってくれている。
癌は患者の体の中に生まれる「自分のもの」であって、病院が作ってる訳じゃない。
治すのも「病院」は薬などのてだてを用意してくれるが、患者本人が自分の体の中のものと
闘う、というのが構図である。先にも書いたが癌そのものは痛いとかいうんじゃない。
周りの臓器、機能を奪ってゆくことで、不全に陥らせていくものだ。

肺ガンというのは、息がしたくてもできず、地上に過ごしながら溺れるかのような
生き苦しさに向かうこともある。


なんだっていい、どうか、どうか、父の病気が、父を苦しめませんように。
母ががっくりしちゃうようなことがありませんように。
なにがしかの奇跡があるのなら、どうか、どうか。


矢井田瞳の曲「MySweetDarlin」聞いただけでも泣けてきた。
「祈ったもん、祈ったもん」ってとこ。(2014年7月6日現在)

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以前のエッセイの記載を読み返して、当時の自分自身の心象のシリアスさにため息がでる。
あのときは悪いことばっかり頭をもたげさせて、どうもいけなかった。
あれからタルセバは父のがんの進行をくい止めてくれていて、日常生活を自宅で
できるようにしてくれている。月に一度の検査もあるけれど、「日常生活をする」と
いうのが、言葉ほどに当然でも普通でも当たり前なものでもないことを感じています。

タルセバの服用から数ヶ月。父は日常生活をして、時折咳がでるけれど、顔色もよく、
病人には一見して見えない。そもそも癌そのものは「痛み」を伴うものではなく、
癌細胞があることで、よその細胞や機能が阻害されることから、体調の不良につながる
ものらしい。諸説あるけれど、先生によっては「癌はいっそ知らないままでいるほうが
精神面ではずっと豊かに過ごしていられる」に近いことをおっしゃる方もいるほどで、
うなづける所も多い。

父も少し頭髪が抜けはじめてるのが気になるけれど、年齢によるものなのか、薬物投与に
よるものなのかが分からない。機会を見つけては父母共に連れ立って、外に出るように
してる。歩くのがつらそうな様子を父に見受けるものの、それでもあちこち出歩けば
気晴らしにもいいと思う。

実際、家族みんなで高山まで行ってこられましたし、念願の温泉も入れたし、自宅の車には
カーナビもつけちゃったしね。
(2014年10月18日現在)
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大阪のおじさんからあずかってきた大阪土産をもって実家に行くと、父の癌が目に見えて
小さくなっているCT写真を見せてくれて、おおいに元気が出ました。父もとっても
喜んでるし、母もうれしそう。癌が小さくなるだなんて思いもしなかっただけに
こっちもうれしくなります。

タルセバの副作用か、食べ物の味で「ダシ」などの隠れた部分の味覚を感知しにくく
なってるんだよ、って父が言った以外は、実に日々普通の生活に至っている様子は、
本当に嬉しくなったし、このまま、癌、なくなっちゃえ、なくなっちゃえよと思いました。

内心お祝いのつもりで、竜泉寺の湯へ父と温泉に入りに行きました。道すがら、今の今まで
父が話してこなかったような、親族の話を教えてくれたり、幼少の頃の苦労談や、いとこの
ことで知らなかったこと、ながや家の父の知ってる限りの系譜などを聞けて、へえ!へえ!と
びっくりすることの連続でした。
(2014年11月1日現在)
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父にながや家の系譜について、インタビューを敢行すべく、ビデオカメラを持って帰宅。
いざカメラを向けると、父はすらすらと喋り、私の誘導は全く不要なほどにどんどん
喋ってくれた。2時間は悠々と、生き生きと喋ってくれました。ありがとうー。

癌の患部は随分と小さくなってくれたと、X線写真の結果を父から聞く。うれしそうだった。
反面、肝臓に負担がかかってきているためか、検査結果の数値欄であがってる部分についての
治療をはじめるんだって言ってた。「ほりゃあ色々こんだけやっとるだもんで、なんもないって
こたぁないわねえ」と少し遠い目をして父は言う。

今年は餅つきをしないことになった。毎年なんのかんのと大仕事だったからこれでいいと
思いました。父は姪や甥が餅付きしたがってるんじゃないかってやきもきしてる感じだった
けれど、今年はゆっくりにしようよって私も思ったのです。
(2014年12月23日現在)
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年末、本家のおじさんが癌かもしれないということで、入院された。
胆道の通りが悪く、精密検査とのこと。父とお見舞いに行く。

「兄さんは働きっぱなしだでね」と父はおじさんに言う。おじさんも少し微笑みながら
聞き流す。本当にそうだ。先だっての父へのインタビューにも出てたけど、おじさんの
収入が一家を支えてた頃があったし、兄弟家族を第一にしたがゆえに、おじさんが心底
好きになっていた「パン屋さん」をしないまま、未だに「ながや家系」の長としての
責任や準備を、おじさんはずっとしている。

「まぁ、おしまいだで」「みんなでいいようにしてくれりゃあいいで」と言っては
両手を合わせるおじさんに、父も私も「まだまだ、なにいっとるだん」と励ますが
反面いつまでおじさんに頼っているのもいかんとも感じたのでした。

私にとってはおじさんも父も本当にかけがえのない人。
ずーっと、本当にずーっと働き通しできてくれたおじさんに、なにか恩返しがすごくしたい。
父もきっと喜んでくれそうな、恩返し。
(2015年1月3日現在)
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蒲郡に新しい温泉施設ができたそうなので、父を誘っていくつもりが、すでに2度父は行っていると
おっしゃるので、本日は自分一人で温泉へ。父は病状に変わりなく、でも元気に出歩いているし、
友人とも遊べており、今日は今持ってるデジカメのSDカードに対応したプリンタをプレゼントする。
父は撮った写真や、焼き増しをとても楽しんでいて、励みになればと思ったのですが、
本当に嬉しそうに「早いね」「綺麗だね」とごきげん。

本当に癌かしら?って思う春。がんと一緒に生きてるってことだけれど、それでも父の元気そうな
様子がやっぱりうれしい。母も嬉しそう。このごろは帰省ごとに父の味付けのすき焼きになる。
姪も今度小学校。甥はまだ3歳までのわがまま盛り。
(2015年3月8日)
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私自身がひどく咳き込む5月。咳喘息と先生に言われて吸引剤飲む有様。父は腕に吹き出物の
ようなものが出ているものの、日常生活に全く支障はなく、シルバーにもゲートボールにも
参加してる。体重がいつのまにか私の方が上回っておるのが少々気にかかるが、私も
巨大化しており、父の表情を見る限り、とても楽しそう。

今日もあおい(私の姪)の小学校入学式の写真を、スキャプリで拡大写真にするにはどうしたら
いいかねえ、と聞いてきたので、プリンターのレクチャーをする。母はそれを見ていて
「いい趣味にしてくれたねえ、ありがとう」と言ってくれるけど、もともと父は写真が好きだし、
8mmフィルム、カメラを介して私が映像畑に進めたのも、父の趣味の延長線上のものだと私は
感じております。

もうかれこれ1年になるんだけど、薬ってすごいものです。日常生活をさせてくれてる。
タルセバ、飲み続けてて、肌のかゆみや痛みを緩和する薬もいい具合におさまってるみたい。

2週前にはキャナルリゾート(温泉・岩盤浴)にも行ったし、月に1~2度は父を連れての
ラーメン屋さんめぐりを決行してるしね。父は濃い味のラーメンを大盛りでも激辛でも
難なく食べては美味しそうにしてくれるので、紹介のしがいのあること。いいお店見つけなくちゃね。

この一年の間にも、父の知人の幾人かが癌でお亡くなりになってる。ニュースなどでも肺ガンに限らず、
若い子でも亡くなることを知ると「薬のきかん場合もあるだねえ。ほーゆーもんかしゃんと
思うんだけどねえ」と、少し遠い目をする。

自分の父にだけは、どうか奇跡でも何でもいいから、癌、根治してくださいって。毎日祈ってる。
毎日祈ってる。そこにいてくれるだけでもう嬉しい。会いにいって、そこに、父も、母もいるという
ありがたさを、少しでも長く、大事にさせてください。神様、神様、いてもいなくてもいいけど、
どうか、このまま。お願い。
(2015年5月23日)
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2016年、バレンタインデー。
父を誘って名古屋中川コロナの岩盤浴に行く。父64キロ。髪は丸く刈ってある。風貌は父方のおじいちゃんに
どことなく似てきた。痩せてる父ってあんまり覚えがないからどきどきはするけど、こうして温泉にも行けるし、
雪解けの後には岐阜にも行こうって話してるだけでも楽しい。いつの間にか、俺の方が父より10キロも
重くなってたんだ。

母は「このごろ(父が)痩せてきた」って心配してる。先だって、母が役員をやらされてる催しに、母が珍しく
いいドレスアップをしたい、というので、大須まで買い出しに出かけることをしました。そのとき、父も母も
電車で名古屋まで出てきて、車で私が大須まで乗せていきました。高架橋など、父は足下がややあやしいの
ですが、母は腕組みができて、うれしそうだったのです。はじめてみました。そんな風景を。

味覚がこのごろ怪しくなってきてるときがあったり、急にお通じが無くなって、腹痛から救急車を
呼んだりもしてたと話は聞いてるので、快調ではないんだ。それでも日常生活をしているだけでも十分。
そこに居てくれるってだけが、不思議にうれしい。当たり前、じゃないんだよね、こういうのが。

父はシルバーの仕事などで枝を切ったりしてるようなんだけれど、その際にこすれた部分が
すぐに化膿してしまったり、傷になってしまったりで、腕がけっこう擦り傷だらけ。頬もタルセバの副作用か
黒ずんでしまったり、吹き出物が痛かったりするようで、それらの鎮静に使う薬がまたうまく効かないみたい。
味覚がシャンとしないっていうので、今日もまぜ麺のセットと焼き鳥缶詰を買って持っていく。
まぜ麺は以前混んでて入れなかった麺屋はなびのレトルト。旨いって言ったので、よしとする。
母は相変わらず麺類も温泉も好きじゃないようなので、父とでかけるっていうことが増えた。

母は父に出かけられるうちは、じゃんじゃん動いていて欲しそうなので、こっちも遠慮なく顔を出す。
父も動ける分には動いとこうという肚があるので、温泉は実にいい口実、っていうとなんだけど、お互いに
なんも話さないにしても、「でかける」というイベントは成り立つのでした。

咳が少しでるようになったかな。で、痩せたし、髪も丸く刈り上げてる。
父はやっぱり父で、母もやっぱり母で。うららかな、一瞬冬に訪れた「春一番」が今日吹いたそうだ。
まだ美味しいところいくかんね、父さん。次回は幸田の旨い蕎麦屋、いこうなー。
母、チョコ、ありがとう。葵は小学一年生、優は4月から幼稚園。今日は部屋に入ってくるなり
「バカヤロー!」と優は叫んだようで、浩之がそれを聞きとがめて「ばかやろーとはなんだ!」と
しかられたそうで、すぐに2階に連れてかれたって。父曰く「(優)本人は何言ったかなんてわかってない
ふうだったけどね」って擁護してた。こういうにぎやかさって救いになるな。

そうそう、今年は餅をついた。シルバーのお兄さんが3人娘も連れてきて、杵と臼でちゃんとついた。
葵も優もついたよ。父はやっぱり火を使うのが好きなんだと思う。餅米は45分蒸らす。うん、覚えた。
(2016年2月14日)
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2016年2月18日、厚生病院の先生から話がある、ということで父、母、次男と私で向かう。
父の癌は腸に転移している、という話は聞いた上で「話がある」ということで、私と弟は休暇を取って
朝一番に病院へ。
担当の先生から「腹膜への転移」が聞かされる。腸そのものではなく、腸を覆う膜に癌が転移し、
後々は腸へ浸透して腸そのものが癌になる。その予防にこれまでやってきたタルセバ治療から
「抗がん剤」点滴に移ることになるそうだ。

メインとなる投薬には副作用が伴い、しびれなどはいったん出始めたら治ることが無くなる治療なんて
ものもあるから、慎重にメイン薬、予防薬の組み合わせを検討することになった。

父の場合、おなかの中に水がたまりつつあり、これが抗がん剤の効果を減らし、ゆくゆくは
投薬中止の可能性が高い。水が入り込まないように癒着させられないのは、今回のがん転移先が
腹膜であり、これを固定しちゃうと「腸閉塞」として死亡につながるからだ。水が厄介。

父母への説明の後、先生が兄弟にだけ目配せをするので話を二人で聞く。

「放っておけば後1、2ヶ月。」「今回の発症位置がとても悪い。半年は難しいかも」と
告知される。先生の説明はとても分かりやすく、これまでされてきた期間の予測もほぼ当たって
きているから、かなり正確なものと思った方がいい。

母は「来年の2月で金婚式なので、それまで」と言ってるのを知ってるだけに、内心泣けた。

ここ数週、父はしきりに通じの悪さを言ってて、出るものが出ないから苦しいと訴えていた。
トイレでもガスが少し出るくらいで、お腹がはってしようがない、と。

それでも「食べられなくなったら投薬は終了」と先生に聞いているから、苦しくても食べてほしい
ような気持ちもある。このあとに治療方法はほとんどない。まず体力が極端に落ちるから
治療とか言う次元じゃなくなってくるんだ。実際父の声量はとても落ちてきてるし、1月から
体重も4キロ落として64キロ。Lサイズの服からMに落としたって母も言ってた。

点滴の投薬は吐き気、脱毛、しびれなどを伴い、3ヶ月くらい続くものになる。幸先のいい話は
なんにもない。

病院から戻ってきてから、弟夫婦と甥。父、母、私で父が美味しいと言ってた幸田の蕎麦屋さんに
いってみる。食べて、やっぱり美味しい。父も味覚が落ちたり戻ったりのようだけど、今日の蕎麦は
しっかり味が分かって美味しいってほめてた。旨いもん食べようね、父さん。

部屋に戻ってから、体の芯から妙に寒く感じる。エアコンがんがんつけてるのに寒い。いや、怖いのか。
(2016年2月18日)
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2016年2月23日。帰宅後母から「明日父さんが入院する」と電話があった。抗がん剤投与のための
入院だ。

4日前。用事がある訳ではないが実家に戻る。父が暇そうにしてるので「岩盤行こうよ」と誘った。
先だっての先生からの今後の段取りをまとめたメモと、抗がん剤の作用についての本を母に渡し、
読んでおいてもらってるうちに、父と蒲郡の「あじさいの里」に行く。雨の降るさなかだったけど、
岩盤も温泉もけっこう楽しかった。父に「足壷マッサージ」を予約し、やってもらう。30分コースだった
けれど、「足に力が入るようになった!」ととても喜んでいたのでうれしくなる。
「ほりゃあいいわ。(わたしにも)やってみりん。」と言ってた。ほくほくしてくる。体重63キロ。

が、帰路で自前のiPhoneをポケットから落とし、水没、液晶破損をやっちまった。

帰宅してから、父に今後の抗がん剤の経緯で、私なりに理解してるところを話す。
抗がん剤治療は最後の難関とかいうものではなく、これまでやってきた「一部の癌」をやっつける
治療というものから、「体のどこかに潜む癌予備軍」のようなものを手当り次第にやっつけにかかる
「内在していそうな癌」へ狙いを換えるものだ、ということ。
この説明に父はにわかに元気を出したし、私はそれがしたくて帰ってきてたんだってそのとき思った。

そうはいっても脱毛や吐き気の副作用を軽減する話ではないので、それでも生きていくための最善の選択を
先生はしてくれてると父に話し、その事前準備にビタミン剤投与が、すでに父には始まっていたことも
抗がん剤を行き渡らせる事前準備と得心がいったようで、ちょっとした安心感を見た気がする。
つまりは、先生の説明だけでは「何に治療してるかわかってない」状態だったので、ネットで調べたり
飲み込みやすい言葉にしてメモもわたした甲斐があった。

翌日、iPhoneで通話ができないことが判明し、今後のことを思うと修理に手間取るわけにもいかないので
名古屋に戻り1日かけて修理をする。どんな連絡も聞き損じていられる状況ではないのだ。
友人、七海あたりがiPhoneの故障体験してそうな気がしたので、電話をするも、当方はイヤフォン部分が
音を発してないことが分かる。あーあと落ち込みつつ、ついでに父と母にスピーカーモードで話を
させる。「肺がんだもんで」と父は話してた。「また遊びにきてください」とも。
父はここに今いるでしょ、って言えたみたいで、不思議な感じだったけど、iPhone壊していくらかかるか
ワカンネー不安もないまぜになって、ひたすらうろたえた。

で、本日、「明日入院」と母が言うので、あさってには抗がん剤投与。4コース3週間の入院が
はじまる。最初は入院。以後は外来もできるという。どうか抗がん剤が父に効果しますように。
癌が一掃されますように。今度元気になったら、ほかの足つぼマッサージ行くんだ。そう決めてる。
(2016年2月23日)
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2016年2月27日。父、抗がん剤投与から3日目。ようやく時間が取れて、入院先に行く。
吐き気や脱毛などは投与から2週間前後に出ると聞いてはいたが、父にイツそれが出るのかは
個体差もあるので、正直どきどきして行った。母が既に居て、父も病室から出てきて3人で
談話室で2時間話す。

父は投与後なんの苦痛もなく、食欲もある。談話室でも普通に珈琲を飲むし、むしろ元気なほど。
白血球現象や免疫低下は投与後1週間から2週間といわれているが、そうした症状を抑える
予防薬の方も日々進歩していて、症状は全然ない。むしろタルセバの投与が終わり、「肌が治ってきた」
と見せびらかすほど。1回点滴したら「経過観察」のための入院であり、この間に出てくる症状で
今後の対策を打つものだ。だから投与の終わった父は、ただ退屈にも病院に居るのである。

そこで私の相棒たる、京都で買った金の豚鉢に植わった盆栽君をば病室に持ち込んでみた。
母は根のつくものは縁起が悪いんだよって言ったけど、部屋で小さな鉢物を置くようになってから
こころなしか邪気を食んでくれてる気がしてる、私の体験談を優先して「水、やってね」と
病室にしつらえてきた。頼むぞ盆栽君。

父、母、私でゆっくり話した。家に居るのと変わりない。
父を見舞うつもりで来たけど、私自身やっぱり父母と話してるだけで満たされるものがあって、
得るものがあるのが分かる。なにかしてるつもりでも、その実、逆に恵まれている。その満たされる
部分って、きっと父と母がそろってそこにいてくれることでこそ、満ちるものだと感じる。
居てくれてさえすれば、満ちるってものが人にはある。

何かを渡す、何かをあげる、っていうのは、気持ちの面でもあるもので、それはお互いがお互いに
「ただ、居る」ってだけでじんわりと満ちるものなんだな。そこが満ちると、落ち着くんだ。

病棟ではお風呂は30分単位でけっこう自由に入れるらしい。「マッサージはないんでしょう?」と
話を振り、「退院したら足つぼ行こう」と笑って話す。
割れたiPhoneの話をしたら大いに笑ってた。「携帯電話の方が使い勝手がいいよ」って話した。
(2016年2月27日)
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金曜日の夜21時、父より携帯電話があり「週末に自宅で過ごしていいんだって、何食べても飲んでも
いいんだって」とはつらつとした声で言ってる。明らかに調子がよく、声が若返ってる。
そうか、抗がん剤のシンドい所を通り越せたんだなってうれしくなる。便通の不調も入院中はあまりない様子で
要所要所で先生やら看護の方からいい処方をいただいてて「ほれがいちいちちゃんと当たっとるんだわ」と
ホメホメ。「お世話んなったねえ。また(実家に)おいでん」といかにもうれしそうで、ホッとする。

この一週間は副作用が出る頃合いで、シンドかったら嫌だなあと思ってたので、素直に喜ぶ。あんまり声が
溌剌としてるから「なにぃ、もう自宅なん?」ときくと、ううん、まだ病院の談話室から、という。
それくらい堂々と、声が出ていたのだ。

その後母より同じ内容の電話が入る。実はそれなりに副作用のしんどさはあったようで、父はそれを
伏せていることが少し分かる。

土曜日、午前中に4年がかりで関わってきてた学生さんの卒展を見に行き、そのあと自宅へ。
何でも食べられるんなら、蟹でも買っていこうかと走り回ったがいいのがない。それならいっそ父の行きつけな
魚市場を一緒に回ろうと帰宅すると、いとこのさーちゃん、のんちゃん、くーちゃんが既に来ていて、
父と母に大笑いで談笑してる。そこへ私も混じり、1時間ぐらい延々笑って話す。

父は10時くらいに病院を出られていて、父の知人に「北陸に知っとる先生がおるでいじゃ(行こう!)」って
あやうく「拉致」決行寸前なお友達が居たことを聞く。「おらぁ今かかりつけの先生の指示でやってくだで、
ここで治らんで死ぬにしたって、最初からほのつもりでおるだで、ほんなんいかんでいいんだわ」と
三河弁ばりばりで大笑いして話してる父は、13時頃来た私のいとこたちと3時間近く話してた。
いつもの通り、大笑いして過ごす。ああ、楽しい。

後から知ったが、父の友人も見舞いや激励でその日は一日会いっぱなし、話しっぱなしだったみたい。
一時帰宅を許されただけなのに、このはじけよう。
夜は弟の帰宅を待って、みんなで西尾の「やじろべえ」で食事。父はミソカツ串を「おお、味がよくわかる」
とよろこんで食べてた。ミソカツ膳はうどんしかたべてなかったけれど、味が分かって、みんなで
わいわいやりながら食べられてうれしそう。

そうそう、病室においてきたらあかん、ってことで、私が京都で買って、病室に持ち込んだ盆栽君は
ながや家に帰宅してた。「金のぶたくぅーん」と姪は笑ってた。

入浴後、父は病院でもそうだったそうだけど「寝付ける感じがしない」と言って、睡眠導入剤を
飲んで寝た。「パシフィックリム」が地上波で放映してた夜。

日曜日。朝一番で、起き抜けの私に、父が家に居ないと母。「ん?」と話を聞くと、どうやら
朝から隣の市の魚市場に突入し、アサリを買ってるとのこと。「なにするつもりだん」と母の問いに
「ゲートボールの仲間に酒蒸しやったげたいで」と、大量のアサリと、日本酒、各種グッズを用意して
帰宅してくる。本人は「ほーりゃ、気持ちいいわぁ」と朝の風に当たってご満悦の様子。
そのまま仲間の方々にアサリの酒蒸しを椀飯振る舞い(無料!)しにゆく。
父はこういうことが大好きで、人が喜んでる顔をみてるだけでいい気分になってしまう。

昨日のいとことの会話中にも、乳母車おしておばあさんが庭に入ってきてたのが目の端に止まって
いたんだけど、先だって、父が町仕事で余った農土用のチップを、善意一つでそのおばあさんの
畑にまいてあげたんだって。そのお礼にお金を用意したみたいで、「ほんなつもりじゃないで受け取れん」と
つっぱねたところ、「ほいじゃあ、畑でなってるもんなら、受け取ってもらえるかしゃあ」と
甘夏、ぼんたんを持ってきてくれたそうだ。父の人となりがでるエピソードだ。
(そのあと、高山の私の土地にもチップまきにいかないかん、ってうれしそうに言ってた)

父の留守中に早咲きの桜を撮影する。もう春なんだって思う。姪も甥もいつもどおりに父に
じゃれてて、いい気晴らしになってると思う。
父の帰宅後、幸田町内にできたマッサージ施設に父を連れて行き、マッサージ&足つぼ90分コースを
やってもらう。母は地域の催しで、昼まで居ないので、父と行きつけの蕎麦屋「笑」に入る。
昨日ミソカツ膳が食べきらなかった父だけど、ここの蕎麦定食はぺろりとたいらげた。しきりに
「美味い!」を連呼し、マッサージ後のほぐれた調子もあってか、ほくほくしてた。

昼過ぎ、実家から甘夏とぼんたん、イチゴ、藤田屋の大あんまきもらって、名古屋に戻る。
父は今晩には病院に戻る。あと3コース分の投薬闘病が待ってるけど、だいじょうぶだよね。
気力体力充実したんだから、はよ帰ってきてね。

昼間に、父に、ジムニーを見て「新しい車でも買うかん」と急に切り出された。「なんで?高山でも
悪路でも便利に使えてるからいいよ」って話す。そもそもの桐山の土地の折衝がほぼ完了し、
「今なら買ってあげられるで」とぽつりというので、「父のもうけたお金は、父が楽しく過ごす
ことに使わなあかん」と笑って話す。この年になって、まだ父は私を子供としてるし、なにかして
あげたいって思ってくれるのがうれしかった。反面「大人ですよ」ともジワリと思うのでした。

父も母も、そこに居てくれるだけでうれしい。何かしてあげられるって、してる方が楽しいんだって
つくづく思う。そしてながや家の「親族のつながり」の妙なるコンビネーションが、すごくうれしい
週末だった。癌だろーがなんだろーが、いつも通りにして笑って話せて、「ちょっと寄ったもんで」と
すーっときてくれることの素敵さに、じんときた。

P.S マッサージ屋に入ると、最初に「大病は患ってませんか?」と聞かれるが、父も私も同じように
すっとぼけて、そのまま施術してもらう昨今で、その静かなシンクロニシティはながや家独特の
「とぼけ味」だって思う。肺がんで転移もあるんだから大病だけど、だからこそ来たんだよ、
マッサージ屋さんよ!
(2016年3月6日)
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3月8日。仕事後母より携帯電話。「父さんが明日の検査いかんで退院してもいいって、K先生が」と。
3~4週間がワンセットの抗がん治療のはずだ。とっさに不安がよぎる。母には先生が体調がよさそうだと
おっしゃってた、と父経由で聞いたそうだ。2週程度で帰宅できる治療だったろうか。
病床に空きがない、のであるなら歓迎してしまおう。だって父は帰宅できるんだから。
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3月11日、急遽退院できる父の話を聞くのと、今月まで父の担当医だったK先生が千葉の病院に転院される
とのことなので、ことの真相を聞くべく、休暇を取って病院へ。病室には父母が笑顔でそわそわして、退院の
準備に余念がない。父がナースステーションに私を連れて行き、先生と少し話せた。
「予定より早いんですよね?」と聞くと「体調がいいんで、帰れます」とおっしゃる。
食べられなくなったら、投薬終了と聞いてたので、一抹の不安もあったけど、先生と二人きりで話しても
さほど言葉に変わりがなかったので、少し落ち着く。
「長丁場ですから」とぽつりと先生が言ったので、今日までお世話になりました、またご縁がありましたら、と
御礼申し上げる。
病室に戻ると、もういそいそと私服に着替え直し、落ち着かない父。お世話になった看護婦さんも少々
あきれる忙しさで無事退院。食事もほぼたべられたというから、今回の抗がん剤投与は功を奏したと言える。
本当に食べるのが難儀に見えてたから。

同病棟内におじと友人のお父さんも入院されていたのでお見舞いをする。

翌日、甥を伴って父母と4人でリニア鉄道館に行く。



父はよく歩いたし、母も笑ってる。甥は運転手の格好もできたし、いいおでかけだった。夕刻、父は
「いとこ会をやれ」というので、急遽高浜のノブ君とこに出向き、場所の確保。月末に催すことにする。
帰路で酒屋に寄ってというので買い物。4本日本酒を買い込み、支払いの段で手持ちがなかった父の
支払いをする。見舞ってくれた方にお礼のお酒を渡しに寄るが留守。

まー、退院しょってからやりたい放題だけど、これっくらいのやりたい放題ならいいと思う。
なによりなんでも食べてたし、お酒もビールも飲んでたし、ひとまず安心。
あと3セットの抗がん剤投与。次回は22日、母の誕生日に外来で投与。長生きしてよ、父さん。
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3月23日。仕事で新人の女の子を乗せて車で滋賀、大阪を挨拶巡り。滋賀を出るところで次男から
父が自宅で倒れ、弟の嫁が付き添って救急車で所定病院に入ってるとメール。大阪についてから弟に
電話で事情を聞く。「腹が痛くて部屋で倒れてた。俺は今から行ってみる」「すまんが大阪なんで
動けない、頼む」と伝え、大阪市内を走る。夕刻、中央区のお得意さんで話してる最中に母から電話。
隙を見て話すともう涙声みたいになって、今どこ?というので、大阪なんだわ、と伝えると
ショックを受けた声が聞こえる。ごめん、ごめん母さん、今はあかんの。
取引先の人も3年越しに電話でしか話してこなかった人で、うれしそうに話してるし、どうしても
切り上げられなかった。明日には東京に動画を送らなけりゃならないし、動画も私か社長しか
動けない。泣く泣く社長に無理を伝えたのが夕刻7時近く。急ぎ名古屋に戻り、女の子を帰した頃、
父は緊急手術を受けていた。当初19時から2時間と聞いてたんだけど、道路の渋滞もあって、
病院に駆けつけたのは23時。本家のおじさん、おばさん、さーちゃん、安城のおばさん、義理の妹、
甥、姪が談話室に居てくれた。付き添ってきてくれてた妹から話を聞く。

昼間まで普通だったんだよ。ゲートボールにも朝行ってたし、お昼前になってお腹が痛いって
聞いたので、救急車呼んで、そんで・・・」と本人にも急だった様子。

内臓が破れていた。そこから排泄物が体内にはみ出しているので、まずはその除去。人工肛門(ストーマ)
つけて、人工呼吸器をつける。到着したとき、ちょうど手術は完了して、ICU(集中治療室)に
次男、母が話を聞きにいってくれていた。本家のおじさんに「なんだ、お前は!」と真顔で
怒られた。こんなに遅れてきやがって、という意味なんだろうけど、ショックだけど、くじけて
いられない。親族が「大阪から戻ってきたとこだよ」など口々にいさめてくれたが、父とこの兄の
結託の強さは重々わかってるのでこらえる。

ナースステーションに向かい、長男であることを伝え、ICUにいれてもらう。
治療室のベッド上に顔色を失って、明らかに口元に力が入らずだらりとあけた口元に呼吸器が
据えられ、目元に涙跡が見える父を目の当たりにして、愕然とする。その横で次男、母が
先生から話を聞いてる。

症状は上に書いた通り。生きてる。父は生きてる。チューブだらけだ。父が最も忌み嫌った状態だ。
母が先生に家族を呼ぶように言われたときに、次男はまだ未着だったようで、それでも切羽詰まった
状況であったようなので、「どうしますか」と言われたときに母はこう答えた。

「もう一回笑顔が見たいもんで、そうできるようにとりはからってください」

チューブだらけだろうとなんだろうと、母はそうしたいっていってくれたから、その手術は行われ、
延命処置をとった。でももうこれ以上になす術はなく、可能なのはホスピス的な痛み取りくらいになる。

でもいい、生きてるし。生きてるし。
痛いだろうけどごめん父さん。まだ話したいよ。母さんの願いを許して。俺も同じこと決めたと思う。
次男もきっと同じ。

2等親族までしか面会できない、それも「3人まで」「15分」というので、自分と弟、母は
ICUを出て、談話室で待っててくれた本家のおじさん、おばさん、安城のおばさん(父の妹)と
入れ替わる。さーちゃんはいとこだけど、入室できる条件にあたわず、ICU入り口までで
待機となったようだ。おじさんはこれにも怒ったんだけど、もうご高齢で短気というよりも、
少々ぼんやりしてしまっている上でのことだから、案内をした弟も困惑したってあとから聞いた。

とにかくショックだった。
母には昼前に「サバのバッテラ買ってあるで」と電話があったそうだ。母はそれが好物ではない。
つまり、本人は食べる気満々だったのだ。本人ですら、突然倒れてびっくりしたんだろう。
腸内からは消化しきれなかったきのこなどが原型のまま体内に出ていたとも聞く。
前日に「チョコレート状」の吐瀉物があったって、帰りの車内で母から聞く。
「もう腸の方が受け付けなくなって、上から戻しちゃってたのかもしれんねえ」って。

それこそ先週「うなぎを食べただ。昼に1回、んで夜にも1回」とゴキゲンな顔で、話してた父。
22日に母の誕生日も祝ってた。ビールも飲んだし、お酒も買ったし。

2度目の抗がん剤投与で、腸はきっと、癌を死滅にかかったのだろうが、癌は腸の壁に届いてしまって
いたのだろう。それが穴となる危険については話を聞いていたから、それに該当する気もする。

だけど、だけど、本当に父は喜んでおいしい、おいしいって食べてこられた。
この週末に「快気内祝い」をするつもりで、いとこのフレンチを借りて、親族にも声をかけてきた。
父さんが買っといてほしい、っていうから、1週間前にきよめ餅も30パック発注してたんだよ、
父さん。やる気満々だったんでしょ、父さん。

帰りの車内、母とはほとんど無言だったけど、気持ちは同じだと思った。
家についてから「父さんはやりたいことやってこれてよかったって思ってると思う」と話す。
「食べたいもん食べれんと『なんで俺のやりたいことを邪魔するんだ』って怒るんだよ」と母。
そうだよ。うなぎも、魚も美味しかったんだもん。だからたらふく食べれたんだもん。

父さん生きて。


3月25日。きよめ餅キャンセルの電話をする。安城ののぶ君に事情を話す。
11時、病院へ。ICUに入ると、20分くらい待たされる。処置中、という。
3人までなので、母、俺、義妹で入る。次男と甥、姪は入り口で待っててもらった。

ベッド上の父は苦しそうに酸素マスク。チューブ、点滴、など苦しそう。それでもあきらかに
家族を見て取った顔をした。声は出せない。動けない。力が入らないんだろう。でも目を開けてる。
よかった。
痛いよね。4時間がんばったもんな。

話ようがないけど、がんばったね、いたかったね、とねぎらう。
15分くらいで弟と交代する。3分と話してるのがもうしんどいのが分かる。
胃も切除してるし、人工呼吸器だし。あー。とか、うー、とか、うなり声だけ。
それでも生きてる。それでも聞き逃せない。

帰路。
母と話す。「これでよかったのかねえ」と母。
「笑顔が見たいって言ってくれたもんで、こうして話せただよ、ほんでいいんんだって」と私。
本音だ。

弟と昨晩少し話しはじめてた葬儀の業者選定、今後の権利譲渡や財産分与などの出てくるであろう
諸々の段取りを「可能な限り母にやらせない」ようにと、ネットなどを使って確認する。
ひどく無神経な役所仕事がオンパレード。さしあたり町内の葬儀屋さんに連絡をし、次男共々
話を聞きにいく。こうした雑務を弟はずんずん進めてくれた。私はうんうん言ってるだけだった。

それでも「なんだかなーって感じだな。まだ生きてる人の話なのに、『なんで俺はここで
こんな話してんだろう』ってきぶんになる」って、やるせない気持ちを吐露してた。
そうだよな。会場の規模とか、親族だれ呼ぶとかなんて、話したくもない。

その間に母と義妹は夜間の面会をしにいってくれてて、そのときには人工呼吸器とれてたって。
よかった。

姪がはじめて14コマ漫画を書いた。私が幼少の頃に滑り台から落ちて、片目の視力を
落としたエピソードをおもしろめにアレンジした大胆な漫画。あした父に見せようっと。


3月26日。
11時、母とICUへ。父は再び人工呼吸器つけてた。看護婦さんが退屈しちゃうでねえ、って
ラジオで甲子園聞かせてくれた。1時間特別に話をさせてくれた。あー、とか、うーとか、うなり声
なんだけど、「姪がまんが描いたよ」ってみせると、にこーって笑った。
「父さんが撮ってプリントしてなかった分刷ってきた」と写真も数点見せるが、処置後間もなくだった
せいか、1分もしないでうとうとする。時々力なく見つめる。でも確かにこういった。

「なんでこんなふうになっちゃうだかん」

ホントだよ父さん。なんでだろ。

手には力が入らない。術後の発熱で39度近い。持ってきた紙やファイルであおいだり、看護婦さんが
氷をかませてくれたりした。父は喉が渇いている。氷をごりごり言わせてかんだ音がうれしかった。
2度目の氷で顔をしかめて看護婦さんに「足が痛い?」ときかれるとうなづく。
意思の疎通はできてるのもうれしい。

足をもんだり、うでをさすったり、首元に手を当てたり、なんとか涼ましてあげたかった。
目線はうつろだ。何か言いたげだけど、言葉にならないのか、力が入らないのか、うなだれてもいる。
もう面会ぎりぎりってところで、父にささやく。「大丈夫だでね。ヒロともあとのことやっとるで
心配いらんでね。父さんがあんまりいたくならんで済むようにやるでね」と言った。
父にはっきり伝わっているのが分かる。今日それまで動かなかった左手をのばした。
はっきりつかんだ。両手でつかんだ。

父は言った。「まだまだ」って。
2度言った。
「まだまだ」って。

うん!そうだよ。まだまだ!そうだよ。
「また来るでね」って言った。看護婦さんもよその部署の人に無理を言ってくれてたみたいで、
「ごめんねえ」とカーテン越しに同僚さんにねぎらいの言葉をかけていた。
本当にありがたい配慮だ。

母と帰路でこうたのらーめんやさんに入る。久々に食べた。
昨日から口座を凍結される前準備を母もはじめてる。私はもう一件、別の葬儀屋の相場調べをする。
姪はまだ漫画を用意してくれてるみたい。

夕刻、本家のおばさんが畑に居たので話す。まーくんが喪主をするのがいいんだと思うっておばさんは
言ってくれた。ほりゃあそのときになったらパニックになるし、時々の判断もほれでいいんかしゃあ、って
思うことばっかりだけんど、ほれはほうゆうもんだでねえ、っていつものおばさんの口調で教えてくれる。

犬の散歩に出る母と姪がめざとく見つけてきて「おばさんがどっかのおじさんと話しとると思ったら
なんだん、うちの長男じゃん」と母に言われる。姪はいったん帰路についたはずの私に会えたので
しばらく遊びながら話した。明るく振る舞い遊ぶこの姪にも、次男は爺ちゃん長くはないって話してる。
本当にいい子に育ってる。放っておけば1週間で亡くなるってところでの手術だった。
苦しくなく、痛くなく、ちょっとの長生きを。どうか。だれか。なんとか。

父さんは2度目の抗がん剤の「免疫力低下」が今日前後にピークとなり、吐き気や副作用がたたっている
頃合いに、術後の発熱、のどの渇きとか、めちゃくちゃな体調のはずだ。でもがんばれって言いたくない。
痛くないように、苦しくないようにしてあげたい。なんとか。神様、いるんなら、どうか、なんとか。
頼みます。ナントカ、ナンデモイイカラ!
(2016年3月26日)
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3月27日
朝にICUに入る。昨晩とれてた人工呼吸器が再設置されている。息苦しそう。それでも顔色は少し
ましになってきてた。写真を何枚か父のコンデジから刷ったので持っていく。葵、優の雄叫びのような
「じいちゃんがんばれー」コールを聞かせると、目頭を押さえた。かゆいところに手が届くように
なったし、意思の疎通もできるようになってきたから、父は苦しいだろうけど、やっぱりうれしい。
面会は30分なんだけど、父は喋っても1~2分でうつらうつらするから、実際はそれほど喋れない。
そんでもやっぱりそばにいたいし、足をさすったり、頭に風を送ったりしてきた。まだ傷の回復で
体に熱がこもるのだ。

一方で遺影になる写真のためにこれまで撮ってきた写真を選別も進めてる。生きていてほしい人の
遺影を進めるっていうのは嫌なものだけど、父さんけっこういい写真がある。
社長に電話し、月曜にもお休みを頂戴する。快く休ませてくれるので、この上なくありがたい。

夜にも母と面会に行く。ベッドがやや斜めに起きていた。まだ呼吸器はとれないし、チューブも増えて
みえるけど、意思疎通は前よりいい。呼吸器で送る酸素量も1/3になってると看護士さんが教えてくれて
にわかにうれしくなる。

明日の休みは父のためというより、母のそばにいてあげたかったのだ。甥と姪がフロア1階に住む
母のところにきて「なんだか静かだね」っていったんだって。父が居たときにしても、父は喋っては
いなかったのに、やっぱりさみしいかんじになるんだと子供心にかんじたのだろう。
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3月28日
母、義妹とお見舞いにICUに。駐車場がなかったので母と妹を先に下ろす。部屋に入ると
「一般病棟に移れるって!」と聞き、うれしい知らせ。見れば父の呼吸器はとれていた。
「よかったねー」と伝えると、うれしそう。電動シェーバー持ってきたけど、自分で使えそうだな。
今日の看護士さんは男性で「今日もカステラの話しとっただよ」といってたが、どうやら
「バッテラ」の聞き損じだったと判明し、笑う。

声もしっかりではじめたし、手も動くようになってる。それでも2分と話すのはつらい様子ではある。
弟から父より容態の悪い人も一般病棟に移されてるとは聞いてるので、一概に安心しきれるもの
ではないけれど、それでも2等親以外の人との面会もかなうことになったので、「これでしばらく
うるさい人に囲まれるねえ」というと、ニマーって父は笑った。
この日の14時には移動で、夕刻先生から話があるとのこと。いいタイミングだったと思いたい。

でも甥にも姪にも会える。今日まで「病院まで行ってもじいちゃんに会えない!」というストレスが
彼ら彼女らにもあった。父も姪と甥の動画が一番顔をほころばせるのだった。少しでもいい。
お話できるようになってよかった。「じいちゃんにがんばれーって言ってあげて」とビデオをかざすと
「おしりぷりぷりー」とか言ってるような甥、姪なんだけど、この底抜けた感じこそ、一番の薬なのだ。

朝一番、名古屋の母の姉から電話があった。母がすっごく落ち込みきっちゃうって話してて、
「まさきくんがいるなら安心ね」と言ってもらう。やっぱり母は一人だと悪い方へ考えていたんだと
思った。話をするだけで、違うものなのだ。病気ってのは当人だけのことじゃない。その周りの人も
また病気のために心を遣うものなのだ。

病院までの道すがら、義妹と母が車の後部座席で喋りながら移動してたんだけど、やっぱり同性同士で
話してるってのは、息子の私との会話の気の紛れ方が違うんだなーって感じた。義妹がいてくれて
本当によかった。

父は喋れないことはないけど、声は絞り出す感じであり、その跡苦痛に顔をしかめるのを感じた。
一般病棟で喋り好きがようさん来そうなので、やや気後れもある。あと、父を拉致して北陸の病院に
連れて行こうとする某父の友人には注意が必要かな。

夕刻17時過ぎ、母と病院へ。7階東棟の一般病棟に父が居るはず。部屋を探すと個室に父が居た。
うれしそうに目線を投げた。開口一番「氷水」?「こおりみず」そうか、1日500mlまで水分
摂ることが許された。看護士さんに言ってさっそく砕いて小さな粒になった氷を父にあてがうと、ごりっ、
ガリッと美味そうな音を立てて3~4度に分けて食べた。病室は少し蒸し暑い。窓もあけていいし、
朝から21時まで外来見舞いもできる!ベッドもリクライニングし放題。これまでICUで一日のうち
11時からの部で30分、午後も20時までに30分という限定期間しかなかったのだ。
なにより一般の誰でも会えるようになった。話すことさえ回復すれば、父の意思は誰にでも伝えられる
ようになる。

母と1時間父をさすった。痰が絡むし咳き込みもするけど、断然意思の力を感じる。
手術をしてくれたうら若き美人女医先生が入室して、先生が「私誰だかわかる?」と聞けば
「病院一の美人看護婦さん」というので、違う違う、先生だよ、とみんなで笑う。

先生曰く、人工肛門もなんとか持ちそうだし、今後はリハビリもして体を動かすことが肝心、とのこと。
元通りだなんて望むべくもないけれど、父の延命はにわかに現実味を帯びる。「強い痛み止めだもんで
眠くなっちゃうだけど、あんまり続けると呼吸器機能も阻害しちゃうんで」といくつか説明も
してくれた。まだあ免疫力の低下は続いてて余談は許さないけれど、母にも父にも最善な進み方の
気がした。

甥、姪をつれて、弟夫婦が夕方来てくれた。とたんに父の顔は喜びのわかるものとなり、ふたりと
握手をしてはにこにこしてた。ビデオカメラでも撮ったけど、今回の手術以降、もっとも父の手は、
動いていたのだ。はぁー、人間って意思の力ですごく変わるね。
随分仕事を休んじゃったけれど、あすから1週間近くは仕事三昧。しばらく会えなくなるけど、
この進捗は正直うれしかった。声が出始めてる。途中、痰が出たときに、母は「血が混じってる」と
言ったけど、父は「赤黒くなかったか?」と聞いたので「そんなの出たの?」と聞くと、以前に出た、と
言う。安堵はしきれないけれど、それでも今は父の回復の方が素直にうれしいのだ。うれしいな。うれしいよ。
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3月30日。昨日、父は悲鳴を上げるほどに痛い思いをしたと母から聞く。よほど痛さを隠す父だ。
異常な痛みを何か味わったのだ。
今日、仕事を速く切り上げて見舞うと、独り部屋に父は居た。やはり咳き込む。夕食時だったので
おかゆや茶碗蒸しがあったけど、父はお茶をスプーンで4杯のむので精一杯だった。
そのあと気持ち悪いと言って吐瀉物に苦しんだ。ぬぐう。今口にした以上の水分が体から
出て行った。父は今、苦しいけど生きてる。

そこへ甥、姪を連れた弟夫婦がきてくれた。姪は「ねぎはかれてないよ」と父と作った家庭菜園の
ねぎ畑の話を文章にしてきてた。甥もじいちゃんが鉄棒してる絵を描いてきた。父はうれしそう。
「こんな病気になっちゃああかんぞん」と聞き取りにくい声で父は言った。甥も姪も少し
ひるんでいるのか、おびえているのか、躊躇してる様子だったけれど、しっかり手を握ってくれた。

手持ちのタオルが少なかったので1階のコンビニへ姪と買い物に行く。6枚も買って部屋に戻る。
タオルに水を含ませ、父の首周りを拭く。のど元にタオルをつけると「気持ちいい」といったので、
しばらく顔周りを拭く。弟夫婦を先に返し、しばらく父を拭く。

息は苦しそうだ。肺は機能してるんだろうか。時々目が空ろになる。喋るのは難儀そうだ。
楽にはなれないのかもしれない。横になると吐くのが難儀になるので、起こしたままで帰るでねと
父に言う。握手をする。

息をするのが楽になるだけでいいのに。
何でもできる父が、タオル一つ濡らせず、息子のしぼったタオルを口元に当てて吐き気と戦ってる。
人の、根源の、「生きて、過ごす」だけの力の振り絞り方を、今目の当たりにしてる。

帰路の車中で涙が止まらなかったから、危ない。電車で来ることにしよう。
いろいろ怖い。体の芯が震える怖さ。
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3月31日、
昨日の父の症状はきっと弟から母に伝わっているだろうから、母に朝一番にメールを入れる。
父に6枚のタオル買ったから、名前だけいれといて、と。すると電話で返事があり、今日は朝から
父のところに行き、夕食まで一緒に居る、という。あとで知るが、弟が昨日の食後の嘔吐を気にして、
居てあげてと言ったようだ。
父も心配だけど、母もこういうとき食事も抜いてがんばっちゃう人なので、これはいかんと思い立ち
社長に無理言って会社を早退。愛車がクラッチ周りが滑る感じがするので、今日は電車、あんくるバスで
病院に行ってみた。エレベータ前で母を見つけ、「ちゃんと食べてる?」と聞くと、ちょうど父が
うとうとしてる間に、食事をとりにきたという。7階の談話室で話を聞くと、午前中も父は
牛乳一本を飲み干したが、それ以上の量を嘔吐してしまった。母はそれがけっこうショックだったようで、
そのあとぐったりしてる父を見ていたようだ。病室に行くと、口を開け、息を大きく吸ってる父が居る。
「来たでね」と声をかける。

昨日のことから、父に濡れタオルで頭や顔周りを拭くとうれしそうだったのを実践。今日はストーマの
交換手順を母が看護婦さんからはじめて聞く日だった。母はおびえていたが、「ゆくゆくは奥様に
やってもらうことなんで」と看護婦さんはテキパキ行う。さすがだ、便のたまった袋を難なく交換し、
奇麗に磨き、新しい袋の装着を少し苦労しながらも母にレクチャーしてくれた。私も母も患部を見るのは
はじめてなので、ひるみはするが、なるほどうまくできた仕組みだ。20分ほどで完了する。
はがすときに、父は顔をしかめきっていたが、いつぞやの悲鳴にはならなかった。2度ほど、苦しみきった
痛みを顔に見せたので、がんばれがんばれ、と体を押さえる。

その後、施術時にとりつけてた管を先生が引き抜きにきた。そのときにも苦悶に満ちた表情を父はした。
そののち、今度は心拍計も部屋から撤去され、今や父は点滴管と、鼻経由の呼吸器だけまでなった。
随分部屋が広く感じられ、今日は父も手が動き、声もいくつか聞き取りやすい話し方になってきた。

「今日安城駅前で美味そうな店見つけたで、ここ出たら行くでね」と声をかけるとうれしそうにしてた。
父が母に氷をせがむと、ナースステーションからカップ一杯の氷を持ってきてもらい、バリボリバリボリと
いい音を立てて食べる。水分だと戻しやすいが、氷だと乾きは癒えるし、体内から冷やせるので、まだ38度近い
父には最高のアイテムなのだ。2度ほど午後から食す。

夕刻、美味しそな魚の煮付けやおかゆが出てきたが、父は「牛乳が飲みたい」というので、その食事は
母がいただく。父は午前中の反省からか、何度かに分けて牛乳を飲む。「うまい」とつぶやいた。

やった!父さん、牛乳飲めたね、少なくとも俺のいた間は戻さなかったかったね。
尿も管を伝って大量に排出されるようになってきてるし、時々グー、パーとリハビリもはじめてるし、
ああ、もう、治っちゃうんじゃない?って、たった一杯の牛乳飲んだだけで思っちゃえるくらい
うれしくなる。

母も私も弟も、父の嘔吐には少なからずショックを受けるのだ。昨日は帰路の車中で涙が止めどもなく
流れるので、それもあって今日は電車にしたのだ。帰路のバス、電車では今までできなかった「音楽を聴く」
ことができたのは、少しゆとりが出たのかもしれない。ともあれ、父は少し、元気になったのだ。
んもー、それだけでうれしい。

昨日まで「生きてるために、精一杯で、息をする」ような、そんな呼吸だったのだ。音楽もいらないし、
ラジオもテレビもいい、と呼吸一つに一生懸命だったのだ。それがどうだ、今日は断然いいじゃないか!
神様、ああ、神様!いや、父のがんばりかな。いいや、たくさんの人の気持ちかもな。
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4月3日。愛車のアクセルを踏み込んでも時々すっぽ抜ける感じが怖くて、ディーラーに予約を
いれてたんだけど、ようやく修理。朝一番にいれて、代車を借りたので、修理完了までにと
父を見舞う。父は酸素吸入器をつけ直してた。手と表情は明らかに以前より快活さを見いだしているが
昨日は3度吐瀉したというし、レントゲン結果で肺に水がたまっていたようで、ベッド脇には
バキュームした肺にたまっていた水と肺組織の一部と思われるものがかけてあった。
肺がんはなくなっていないし、進行もしてるのだろう。食欲はやはりないままで、点滴で生きている。
でも弟夫婦も甥姪を連れてきてくれて、病室はにわかににぎわう。

まだ38度を超える高熱が続き、ここに吐き気、食欲不振、がんの進行と、息の抜けない
状況ではあるからこそ、普通の会話を楽しむ。

おとつい、末弟が今回の発病後、初めて父を見舞っていることを知る。仕事後に、次男と
病室でブッキングしたようだ。母は自宅に戻っていたというから夜20時過ぎの見舞い。
次男は帰路の途中に毎日病院に寄ってるから、少し話したそうだが、実家には寄らずに
帰ったらしい。母は実家で戻ってくるかもしれない末弟のために寿司を買ってあったのにね、と
今日母から聞く。

人が人への思い入れや温度を持つ加減は、人によって千差万別なのだけれど、それは他人でも
親子でも兄弟でも同じことが言える。親族と言えど、温度差が存在する。それをとがめるのは
難しいことなんだけれど、少なくとも末弟が自分の意思で見舞ったことはうれしかった。

父の兄も見舞ってくれたようだ。手術から10日経ち、「なにもしなかったら亡くなってる」
タイムリミットは越えてる。父と話せ、家族で病室であろうと語らえ、一緒に過ごせる
気持ちは、貴重な時間。甥は今日幼稚園に入園。姪も6日から小学2年生。義妹もとてもよく
見舞ってくれ、次男は「ながや家実家」を守ってくれていて心強い。末弟もまがりなりにも
気持ちを使ってくれた。母は気丈に振る舞っている。支えなくちゃ。
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4月6日。おとつい父を見舞ったときには、抗がん剤の副作用が弱まってきたのか、声が聞き取れるように
なってきてた。熱はおさまっていなかったので、頭に濡れタオルをかけたりしてた。
今日は額を触っても熱くなかったので、少し落ち着いてるかと思いきや、呼吸が苦しそう。
痰がしきりにつまり、ナースコールをすると、吸引をしてくれるのだが、鼻から管を通し、
父もえずく。吐き気に加え、痰が口元からあふれるのをあわててティシュで拭う。

「どの姿勢がいい?起こそうか」と聞くも「もう、どうがいいかわからん」と苦しい呼吸のさなかに
しぼるように言う。しきりに「苦しい」「苦しい」を言う。泣けてきたがなす術がない。
枕から頭が落ちそうになるので、首周りをいじると「気持ちいい」といったので、ヘッドマッサージを
する。1時間ほど見舞ってから実家の母の顔を見に行く。

今日は37度8分と、このごろでは体温が低下してきている。とはいえ高熱のはずなのに、
しきりに「寒い」と父は言っていたそうだ。昨晩は夜の間にベッドから落ちていた、とも聞く。
動けるはずのない父が落ちた、ということはよほどのことだ。動けたのか、もだえ落ちたのか。

帰り際、父は「もういいでな」「ありがと、ありがと。みんなにありがと」と短く言って、
左手で握手をした。声も出てきた、力も入るようになってきた。なのに父の肺はレントゲンによると
真っ白なのだそうだ、と母から聞く。水がたまっている。痰もその流れなのだろう。
今日母はストーマの交換をやりはじめた。義妹にも時間ができたらお願いしてみる、と
母は言った。話してれば笑うし、元気そうだけど、気を張ってるんだと思う。

母はきしめんを食べていた。食を抜きかねない母なので、抜き打ちで見に行くことには意味がある。
姪は2年生になり、甥は明日から幼稚園。

父は10分とせずに痰と戦ってばかりになってるのだろう。苦しい。自力で痰が出せなくなりつつあるのが
今日見てて感じる。それは次の瞬間にも死の恐怖が隣り合わせる状態でもある。

母は言った。「(先だっての手術)ああしちゃったけど、あれでよかったのかなって、一人になると
考えちゃう」って。

苦しい、と父は訴える。どうしよう。どうしたらいい。どうにもできないのに、どうしよう。
なんにもできない、とかふて腐れたり嘆いた心持ちに酔ってる場合じゃない。
父の苦しさだけが本物だ。寝ても覚めても苦しい呼吸。体は高温なのに寒いという父。
朦朧とし、意識の混濁のなかでも日々苦しむ父になにかしてあげられないか。少しでも楽にしたい。
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4月8日。仕事後病院へ。名古屋から安城の往復にもなれてきた。父の熱は37度台までさがって
きていた。それでも平熱より体温が高いはずなのに、「寒い」と父は言う。布団をかぶせる。
でも頭のぬれタオルは気持ちいいという。胸元にこみ上げてくるものが多いので、気持ち悪いと
訴えた。看護士さんに吐き気止めをいれてもらう。ストーマも交換。顔見知りの看護士さんも
できてきた。

芸大まで行かせてくれてありがとう、仕事でも役立ってるよ、とか、次男の弟が、兄弟内でも
父のようにバックアップに回ることを意識的にやってくれてるよ、とか話す。普通のことを
普通に話すのが一番いいように感じる。

母の電話では、お腹の中にあちこちがんの巣窟があるようで、今日初めて緩和ケア(ホスピス)の話が
出たと母から聞いた。それでも今の症状より「食べる」くらいはできないと移動しにくいとかなんとか
まだそっちには行けない容態のよう。

父はベッドに横たわっていてももぐもぐと口元が動いている。痰があげきれないのだ。頭を触ると
震えるように小刻みに震えている。これを四六時中、延々続けている。唯一薬の投与で吐き気止めが
効いてきたり、痰を吸い上げたあとではしばらく寝息が聞けるが、それでも15分といったところで、
つまりは入院してからの今日まで16日、延々心も体もひっきりなしに苦痛や震えに苛まれているって
ことになる。

それでも今日の父の声は聞き取れた。正直おとついの訪問後、容態の急変が怖かったくらいに調子を
落としてたから、苦しんでるにしても、父がそこに居てああ、よかったと思う。もうどうしていいか
わからなくなるのが早いよ俺、などと思う。

帰り際「無理せんでいいでな」と父は細い声で言う。無理なんかしてません。また来るねといって
病室を出る。無理してくれてるのは父であり、無理して生きててくれるから苦しいのは父だ。
なのにその言葉を人に渡されると、もう返事に窮する。

帰宅後、キッチンの照明が切れそうになってる。春っていろんなものが壊れる季節でもあるなあって
思う。
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4月10日。
9日の午前中に自分の生活の整えをいくつかする。ドラッグストアに寄ったので、父に使えそうな薬とか
湿布などに目がいくものの、入院看護されてる父にあてがうにも、最も先端の医療を受けている訳で
なにも買わないで済ます。午後病院に行くと、母が居る。お昼過ぎなのでご飯食べた?と聞くと
食べたと答える。父はまだ37度台だけど、やはり寒いと言ってたらしく、布団をかけてもらっていた。
それでも痰はほとんど出ず、喋ってる声も聞きやすい。体調としては少しいいかも。
弟夫婦が甥姪つれてきてくれて、病室がにぎわう。甥はまだ年少さんで10分もすれば飽きて泣き出す。
姪はさすがに小学生で、しっかり周りを見てる。談話室であやすのだが、飲み物を甥は要求する。
子供だものね。父はそういうにぎやかさをうれしがってる様子だった。

以前撮った父のインタビューをDVDにしたので、安城ののぶ君所へもっていく。あいにく留守だったけど
奥さんとしばらく話せた。人生少しばかり紆余曲折あったほうが、人に優しくできるかも、と
話した。帰宅すると母が2人前の焼き肉・ほたて・エビ焼き大会を催してくれた。ふたりとも
よく食べた。いい傾向。甥と姪に本をプレゼント。

10日当日、実家で鯉のぼりをあげるんだと甥にせがまれ、弟が工夫してるのを手伝う。
甥姪つれてエンヤに雑貨を買いにいく。甥は自分の欲しい車を。姪は父へのプレゼントのための
パーツを買う。性格で出てくるなあ。

午後、病室に父を見舞う。咳も痰も少なく、体調良さそうでうれしい。今日はストーマの交換を
義妹も覚えるそうで、準備してる。弟が言うには「私も家族だからやる」と義妹が言ってくれてるそうで
「できた嫁さんだもんで」とほめてた。その通り。なかなかできないこと。

その間、甥姪を「あんくるバス見に行こう」と連れ立ち、病院周りを1周する。
心なしか父はにわかに通常の喋りをしてる気がする。看護士さんに甥姪と歩いてると声をかけられる。
病室の写真で顔が知られてるみたい。姪はストーマの交換もやってみたそうだったけど「まだ子供
だから」と断ると「じゃあいつからできるの」とか言われる。「身長が倍になったら」と言ったら
すかされたような顔つきで黙った。子供扱いはよくないのかもしれない。
でもおおむね、週末はおだやかな心持ちになれただけ、いいものだった。

桜見もしなかったし、見たい映画も3本のがしたけど、くやしくもなんともない。
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4月14日。朝一番に母より父の病室が東棟9階に変わったと電話で聞く。夕刻、病院に向かってる途中で
また部屋が変わったと母から電話。部屋に行くと「消化器科」だか「呼吸器科」だかに移動。(よくわからんのよ)

部屋では父が静かに寝入っていたので、実家へ向かう。母から聞くには、母が覚えたストーマ交換について、
義妹に教える算段であったところ、今日移ったフロアの看護士さんに「あなたは(ストーマ交換)を
覚えてみえるようですが、帰宅できるってつもりでいるんですか」に似たことを言われたそうだ。

実際、以前のフロアでは「覚えてもらいますから」と一種の強い要望が、看護士さんからされたからこそ、
母は怖がりながらストーマ交換を覚えたし、周辺のグッズも買いそろえたのだ。義妹もそれに習って
義父である父のストーマを覚えてくれようとしてた矢先だけに、フロアを移っただけで方針が変わってる
ことに困惑を覚えたのだろう。

看護士さん個々人にもやり方はあるし、実際今のフロアの看護士さんはいい人ではあるし、できる人だと
印象したと母自身も認めている。こっちが預かり知らないカルテも読み込んでいる看護士さんが、
「まだ(実家に父が)戻れると思ってるの?そのために(ストーマ交換を)本気で覚えてるの?」的
表現をされてしまうと、とたんに気持ちが萎えるのも自然なこと。

母には向こうは専門家だし、その誰もの言葉は「言ったこと」として覚えておくだけでいいし、それでも
自分たち家族はいい方向に向かっているってつもりでやるしかない、と話す。

父は同フロアに入院してる人の重篤者の中では軽微な方なのだそうだ。実際よその病室から聞こえる
咳の類いはシリアスに聞こえる。

今週父は小さなカステラを食べたし、もみじまんじゅうも「うまいうまい」といいながら食べたって。
そのあと嘔吐しちゃうし、体調もグンと落ちるんだって母は言う。でもおいしいっていう感じ方を
父が選んで食べてくれるなら、もうそれでいいと思う。

4月なのに26度を越えた今日でも父は「寒い」って言ってたって。来週月曜に先生から話があるって。

実家に戻ってみると、義妹が母の分のごはんも用意してくれてて、なんだかうれしかった。家族って大事。
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4月16日。仕事後、ふと思い立ってiphoneのナビを使って病院に向かってみあたら、思いのほか
ショートカットできる道順に気づかされる。うれしくなって病室の父に報告する。今日は焼き芋食べたって。
看護士さんが来たときに、睡眠薬をくれ、と言っていた。なに?寝れてないの?と聞くと、父はうなづく。
何度もうとうとしてるんだけど、寝ているっていう感覚ではないみたいで、延々くたびれている。
錠剤しか許されてないし、夜20時過ぎまで待って、と看護士さんは言うが、父は点滴でできないかと
伝えている。先生に聞かなくちゃなんとも、と看護士さんの言うことも分かる。

iphoneに入ってた最近のながや家実家の風景(15分)を見せると、一度もうとうとせずに見通してた。
もっと普通の風景を撮ってみせよう。

明日また来るね、と父に伝えて病室を出てしばらく、廊下で何か視線をかんじるので、見ると末の弟がいる。
見舞いにきたらしいので病室に戻るが、あんまり父と話すこともなく、所在無さげにみえた。
いくつか話をアシストしたけど、困ってこちらを見たりするので「父さん、(弟に)美味いもん食わせるで
行くね」と伝えると、父は少し表情を緩めた。出しなに末弟が父に「ちゃんとやっとるで」と報告してたのが
背中越しに聞けて、なんだかうれしかった。

病室内で、「父の状態どうなの」と話しはじめたので、談話室まで戻り、「お前が見た通りの症状だ」と
伝える。今分かってることを伝え、いろんな覚悟もしとけよ、と話す。

彼なりに会社や上司に事情は話していたから、有事には応じられるよう。父名義の自動車保険のこと、
今働いてる会社の昇進試験を受けること、などなど、これまで聞いてた「暗く」て「やさぐれた」弟像では
なく、幼少の頃から知ってるままの末弟そのものだった。
晩飯を誘うが、帰りたがっているので、駅まで送る。「祈ってる」と別れしなに言ってた。

なんとなく週末に、それも夕刻に来る気がしてたので、いはば狙ってた感もあるんだけど、弟はやっぱり
弟で、次男のそれともやっぱりまた別の感性で過ごしている。どうしろ、ああしろって言うよりも
彼が目で見て、会って、知ったことの上で、「なにをするか、どう過ごすか」を彼が決めるだろう。
もう何度も喋れる訳じゃないぞ、とは伝える。次男はそれこそなにを置いても飛んでこい!とメールしてた
ようだけど、それも正しい感情。その中で末弟は父との対峙を、彼なりに見つけてほしい。

母に末弟と会った旨メールしたら(もう夜半だったので)喜んでた。母とは数年会ってないはずだ。
本当なら今日は鹿児島に行ってるはずの私の代わりに、飛行機嫌いの社長が、まだ熊本地震が収まらぬ
さなかに出張していただけたからこそ、末弟とも数年ぶりに話せた。周りの人のたくさんの気遣いで
できたこと。父の病気はつらいことだけど、それでこそ見えてくる「角度」のようなものがあって、
「そうか、こういう『分かり合い方』もあるんだ」とたくさんのことで感じられもしているのでした。

末弟に「兄が白髪が増えててびっくりした」と言われる。そうよ、いい年なんだよ。
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4月17日。日常生活の段取りに午前中を費やす。髪を切りたかったのでいつもの美容室へ。いつもの
お姉さんと九州の地震について憂う。父と昨日話して決めた「フルーツ」をいくつか一口サイズに切り分けた
タッパー3つ分持って病院へ。ちょうど次男と甥、姪が出てきたので、一緒に病室に。

父は無表情にカットフルーツをついばむ。しばらくかっこんでいたが、もういい、と箸を置く。
午前中にジャムパン半分食べたって。なんのかんのと食べられはじめてるし、嘔吐もない。
痰が出る様子も今日は1回しか見受けなかった。体温が37度9分あるのに、熱冷ましが寒いんだ、と
とっぱらうんだから、まだ体調は正常ではないんだろう。

病室に次男がアイスを差し入れてくれたので、父以外のみんなで食す。甥もゼリーをぺろり。
ポータブルDVDも持ち込んで、「父の2時間インタビュー」「ながや家スナップ」動画2本を
流してると、やはり父はきちんと観てる。観たい意欲はあるのだ。ただ、観たいものはそう多くない。
100円ショップで6つほど買ってきた子供玩具で甥も姪も遊んでくれた。ぐずったら小出しに
使うつもりが、全部開封したので、にわかに病室は遊び場になる。

父は昨晩睡眠薬を錠剤ではなく、点滴でもらえたようで、眠れたと言っていた。
母は父は眠れていると思っていたようで、「このごろよく眠ってるで」と言ってただけに、軽く
ショックだった様子。父は喋れば声も出始めてるし、フルーツ食うにしてもベッドを直角近くまで
曲げられていたから、徐々に体調は戻してるとつい思いたくなる。

近々「きよめ餅」を差し入れるからね、と父に話す。
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4月18日。午前中にきよめ餅を買い込んで病院へ。父にきよめ餅みせたら食べるというので一切れ食べて
もらう。美味い、って言った。リハビリの先生が父を起こして窓向きに座らせた。座ることよりも、息が
苦しいと父は言う。先生に聞いたらマッサージ機使ってもいいというので、最寄りのハードオフで
足マッサージ機購入。さっそくふくらはぎに使う。なにか食いたい?と聞くと「蕎麦」というので
ファミマでざるそばを買い込む。母は少し嫌そうな顔してたけど、父が食いたいというんだから
6~7口食べさせる。うまい、うまいと言ってた。つゆも2度ほど飲んだ。

午前中にはスイカなどのくだものも食べてるし、つまり「果物」「きよめ餅」「ざるそば」を
今日は食べたし、もどしてもいない。まずまず。

夕刻19時過ぎ、フカツ先生と消化器系の先生が一緒に部屋に来られて、父は緩和ケアの段階にあると
話してもらう。「体力の消耗につながる治療はしない」というコンセプトで、症状に対処していくことに
専心するもの。つまりがんの進行には手を打たずに進める。苦しまないで済ます、ことに意識を
シフトさせる。そう、ホスピス。

先週父と母には言ってあるんだけど、と先生は言ったが、父に聞くと「聞いてない」と言う。
母は知っていた。話してなかったようだ。次男が詳しく先生に話を聞いてくれていた。有料・無料の
ルームがあるようだけど、どちらも予約待ち。予約といっても「空く」ってことは、どなたかが部屋を
あけたってことで、お亡くなりになるか、他の緩和ケア施設に移動したか、である。

父さんには「ながや家としては、父に一番痛くならない選択で行くけどいい?」と確認する。うなづく。
もちろん、「退院1ヶ月」を目標に行く、と先生はおっしゃってくれたし、それを目指す。家族もそうだ。
でもやっぱり父はショックだったようだ。母も次男も、父の表情が減ってるというんだけど、俺には
そう見えないのでした。食べるものも増えてるし、動ける部分も増えてる。痰も出るけど、以前ほど
凄惨な風景にはならないようになってきてる。自分をだまそうとしてるのかも。心が弱い。

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インターミッション。
父にあったかいそばを食わせたく、コンビニやネットであっためるだけで食えるそばってないかしらと
走り回る。コンビニ3店巡って、100円ショップでカネキチの袋麺タイプの蕎麦発見。
インスタントには父は難色を示したので、生麺タイプを探す。

うどんやざるそばはあっても、冷凍蕎麦ってあんまりない。でも食べさせたいのはあったかい蕎麦。
病院の談話室にはレンジしかない。お湯はポットに仕込んでいこう。温かいそば食わすかんね!待ってて!。
たぬきにするか。あぶらって美味いもんね。待っててね、すぐだかんね。
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4月21日。次男と話して今日のホスピスの部屋の話に私が出ることにする。母は私一人じゃ
頼りないってこと?と言ってる。父はまだどこか緩和ケアに合点がいってない様子で、
「なんで肺がんの治療はせんだん?」と母に言っていたらしい。厳密には「食事がとれなくなったら
治療は終了」と抗がん剤治療開始時に先生は伝えているが、今の父にそれを言うのも酷だし、
実際食欲もでてきてるんだから、本人も治す気満々なところまできつつあるので、そんなおりに
「緩和ケア」といわれても、の心境もあると思う。

それでも担当医の先生がこれを薦めているのだから、まずは話を聞く。二人の病棟担当者が
こちらの家族構成、これまでのいきさつを聞いてきたので、正直に伝える。
このとき、本来父の受けたような手術では、施術後、2~3日で亡くなることもおかしくない
症状で、ましてや食欲の戻るところまできてるだなんてすばらしい、と連呼される。

おおまかに説明を受け、病棟を母と見に行く。有料/無料とあるのだが、調理器具が完備されてたり、
お風呂や広いフロアの部屋など結構多彩。木曜日の音楽会、というのも催されてて、雰囲気は
たしかに穏やかで、病室より雰囲気は断然いい。

そして緩和ケア棟では基本「体力を消耗する治療は施さない」ので、抗がん治療も心臓マッサージなども
施さない。痰のつまりや痛みへのケアは集中的に対応してくれるが、快方に向かえるのは本人の体調と
気力にしか依存しない。今病室につけてる心電図や呼吸頻度などのモニターは、基本的にしない。

父はそれが多分分かってる。そして父は「帰りたい」と今日も言った。
だからもし緩和ケア棟に入れるとしても、それは「今の体調を整える」ためであり、基本的には
「帰宅したい」父の要望のための工夫のひとつだと、指針した。

父は食欲が出てきてる。タンパク質とか、食事でしか回復できないものもあるから、とにかく
食べれるようにならなくちゃはじまらない。
緩和ケア棟を観てから、父に「食事を摂ること」「リハビリに励むこと」を伝える。
少なくとも、この3月の手術で命を落としかけていたのを切り抜けたのは、父の気力と根性と体力
だったことは間違いなく、今出てる食欲も、父の意思の力を感じてる。

だから家族はそれを支えよう。

今日もこの間買ってきたマッサージ機使う?と父に聞くと首を横に振った。
ああ、あんまり体調よくないのかな、と思ってしばらく病室にいたが、ふと父が母に
「あれ(マッサージ機)やると兄ちゃん(私)が汗だくになるで」とポロッと言った。

父のふくらはぎ、足裏にマッサージ機をあてがうんだけど、たしかに夜の見舞い時に、
足に力の入りきれない父の足裏にマッサージ機がフィットするように、15分くらい
押し付けてたことがあったのね。そのときにかいてた汗を父は観てたんだと思う。
なーんだ、遠慮してたのかと分かり「じゃあ、やろう!」とふくらはぎ、足裏のマッサージをする。
実際、むくみがとれはじめてる。しめしめ。

そろそろ食欲が出てきたので「何か食べたい?」と聞くと「卵かけご飯」と言った。
部屋に来てた看護士さんに「病室でご飯炊いていい?」と聞いたら「怒られちゃいますねえ」と
笑っていなされたので、炊くことはあきらめる。でも卵かけご飯はぜひ実行の予定。
うまいもん食わすよ、父さん。

夜、いとこののぶくんから電話があり、もしうちの両親が「帰りたい」と一時帰宅などを望んだら
その病院の緩和ケア棟の職員さんに知ってる人が居るで力になれるよ、と言ってもらえる。
その心づもりがうれしかった。ありがたかった。お礼を伝え、そうとなったら即頼るかんね!と
伝える。おとついは別の看護士さんに、のぶくんの同級生さんが偶然いて、その縁故からわざわざ
病室に顔を出してくれた人がいた。看護士さんの格好してたけど、明らかに「帰宅するところ」の
着替えも済ませている風であるから、もう勤務時間外なのだと一目で分かった。
こういう小さな心配りがあることがしみる。

つまるところ、人が生きるのは人間力だとつくづく思う。思うよ。
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4月24日。昨日、今日と、父はきちんと食べてる。母の作るそばも食べるし、私の買っていった
海鮮丼も具部分をぺろりといった。眠っている時間が増えてもいる。足のむくみはまだ残るけど、
暖かくなってきてる。腕は細くなってきて、しわが目立つようになったのは、むくみもとれてのこと。
弟夫婦も母も本当によく顔を出してくれている。

そうそう、父は念願の卵かけご飯をぺろりと平らげたそうだ。本望じゃのう。
病院食も、朝の1食を食べるようになってる。すごいじゃん。昼、夜に食べるものを
母が気遣っているようだ。好きなもの食べれるんだしね。

次男がもしかしたら九州の地震に関連して派遣されるかも、と今日聞く。私も出張で加古川か
神戸にいかねばならないかも。日々の仕事が、こうした局面にちょくちょく顔を出す。

父は食べることに意識を置いてるし、母が言うところでは、なんとか緩和病棟に入らないで
済むようにがんばってるのかも、とのこと。緩和病棟に入れば、治療行為はほとんど期待できない。
みんな少しづつ、言葉にしないながらの葛藤が潜んでいるけれど、それでも休みごとに顔を
出してくれる。父は今日「みんなおるかん」と聞いた。今そろえられる家族はそろった午後だった。
甥はジュースをたらふく飲み、姪は折り紙で鶴を折ってくれた。
父は点滴量が減り、食欲のおかげでストーマにガスがたまるようになってきた。母の心配を
軽減したく、ストーマについての本を貸す。

術後1ヶ月。父は食欲を摂り戻るまでに至った。箸も使うようになったし、今日も
「食べれるだら」と自慢げに言った。蕎麦なんかも食べきれば「完食」とつぶやく。
声は絞り出すような声量だけど、なんとか聞き取れる。食べたあと、咳が出るのを母が胸をさする。
飲み込むのが難しいのかも。それでも嘔吐したりはしない。栄養になっていってるのだ。

昨日は父に「ごへい餅」を買っていった。母が食べさせてから「あ、入れ歯いれてないじゃん」と
気づいて、笑って入れ歯をいれて食べ直した。父も黙って歯のないままごへい餅を食べてるんだもん。
赤味噌味のがやはり美味いらしい。濃い味が好きなのだ。

看護士さんが「あとどれだけ食べれるかな」みたいなことを言ったと母はつぶやいてた。
看護士さんの中でも「上から目線」で言ってくる人が居ると母は言った。ずっとつきそってるから
どうしてもいろんなことが聞こえてきてしまうんだろう。

1ヶ月、休みごとに父の病室に集う家族。疲れがないとは言わないけれど、つらいってもんではない。
母は気丈にしてくれているし、弟夫婦、特に甥と姪がいれば、やはり父はうれしそうなんだ。
そして今ここに居合わせなくても、思ってくれている人の気持ちを予感できるのだ。
美味いもん食おうね、父さん。今約束してるのはたこ焼きとうなぎだよ。うな丼探してるよ。
もう1週間でGW。予定は毎日見舞い。いくらでも通えるよ。

ああ、あと母がセルフでガソリン入れるのをためらいがちなので、それは私の仕事。
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4月28日
今週、父にたこ焼きを食べさせようと、銀だこで美味しいのを買っていったら、既に母が日中に
食べさせていた。美味しかったって。あと、テレビを観てることがあった。そう、テレビ施設は
あったけど、なんにも観る気の起きない日々で1ヶ月過ごしてきてたから、正直びっくりした。
「なにぃ、テレビ観とるじゃん」と聞くと「観とらんとすぐ寝ちゃうだぁ」と三河弁で父は言う。
そういいながら、気づくと寝ていた。しばらく父の横で観るともなくテレビと、9階からの夜景を
交互に観て過ごした。

で昨日。仕事場でお世話してた子が退社する日だったので、ちょっと遅れて病室に行くとなにやら
にぎやかで、観れば母、弟一家がわいわいやってる。その真ん中で、父がベッドを起こしてにこにこ
してる。姪が「今日はねー、じいちゃんよく喋れるようになったよー」って。

聞けば、点滴チューブも抜かれ、鼻に通してた呼吸器も外され、随分身軽な状態になっていた。
なおかつ、リハビリの先生の助言もあって、今日は車いすで病院敷地内をぐるりとしたというのだ。
「気持ちよかったー」という父の声はか細くも弾んでいて、よかったねぇー、とじんわりきた。
1ヶ月、ICUと病室にしかいられず、たっぷり人と話すこともままならず、食事もようやく自力で
摂れはじめただけのこの1週間だったから、こうまで自由度が高まれると思っていなかった自分に
気づいた。そう、父はよくなってきてる。

そうはいっても癌は進んでいるし、どこまでももよくなるってもんじゃないことくらい分かってる。
でも3月の手術で、術後2、3日かもなんていう患者がざらな中で、父は息抜き、点滴で回復し、
今食事を意識的に摂取して、今日は「病室から出発!」したのだ。すごいじゃん!すごいじゃん!

朝、夕に病院食を食べるようになってきたというし、なにより喋ってる言葉に力と感情がこもるように
なっている。顔つきも平素の顔つきに戻りつつあり、うつらうつらもしない。なんだろ、人の体って
どういう仕組みなんだろ。

弟が仕事帰りに金山駅で「きよめ餅」見つけて買ってきてくれてたのを膝元に乗っけて、「みんなも
食べりん」と父は言う。弟が「なんか食べたいもんある?」と聞いてたので横から「うなぎうなぎ」と
私ははやしたてる。最寄りの寿司屋でテイクアウトを見つけていたし、予算規模で考えればすき屋にも
あることが見つけてあるし、弟なりに心当たりもあったみたい。

母がね、それはもううれしそうでね、声をはずませながら車いすの冒険を話してた。1ヶ月、
いつ亡くなってしまうかもっていういい知れない不安と隣り合わせながら、父と毎日毎日
過ごしてきてた母が、父を車いすに乗せて、病院施設内ながら回れた、病室から出せた喜びの大きさは
他の誰にもいい知れない感慨があった。父は携帯で市内に住む妹さんにも電話したようで、
おばさんはすぐに病院へ飛んできて、車いすの父に会えたそうだ。
おばさんの上の兄ふたりが、何度も、時には一緒に入院を繰り返していて、二人がいなくなっちゃう
さみしさで家で泣いてるってのぶくんに聞いてたから、この話は居合わせなかったにしても目頭が
熱くなった。

父はいくつかの科でお世話になってるから、病院巡ってる間にも「あ、ながやさん、車いす乗ってる」と
看護士さんに声をかけてもらったりして、その都度母はうれしくなったと言う。誇らしいよね。

母には渡してたストーマの本から、父を障害者申請できることを見つけ出してたようで、その準備を
してた。母にしては冷静だ。「あと3人」になったホスピスの順番待ちは、あと「父の署名」で
止まってる。父は言ってないけど、ホスピスには入りたくないのだろう。そこでは「治療」は
されないことを聞いている。

今日父は言っていた。「みんなのおかげだ。ありがとありがと」って。
こちらこそ!ながや家の家族の、個人の思いで動いてることは、バラバラのようで、個々のものだけど、
総じて父さんを気遣ってのもので、そういうのが大きくフワッとなって、父にしてあげられたことが
たくさんあった1ヶ月でもある。甥は今日「制服ー!制服ー!」と幼稚園の格好で病室の父に
見せにきてくれたようだ。今日はお姉ちゃんとママだけが見舞うつもりだったらしく、
なんかかんか、病院に行って飲んだり食べたりすることも楽しみになってる甥は、「今日は
(いつもはねだってる)アイスもいらんから、じいちゃんとこに行きたい」って言ってくれたそうだ。
4歳だよ?うれしい心意気じゃない。ま、それでも来ちゃえば食べちゃってるんだけどね、アイス。
あと、声量のコントロールが利かなくって、大声出すたびにみんなにたしなめられてるけどね。
子供だし。

一方、新聞で「1ヶ月300万かかる肺がん治療薬承認」の記事を読んだ。ターゲット阻害薬とは
また別の新薬のようだけど、劇的に癌をやっつけるものではないそうだ。それでも人によっては
すがりたくなる話だし、金額が一般家庭に担える話じゃない。これは抗がん剤治療開始時に、先生に
「他に打てる手だてはありませんか」と聞いたときに、ポロッと先生がないことはないけど、月の
支払いが尋常でない薬があるから論外、っぽく言ってた話のやつだろう。

人の命はお金では買えないけれど、買いたくなるような話を鼻先に突きつけられる気分になるのは
こっちが意固地なだけなんだろうか。

とにかく、今日の父はよかった。病室出際に看護士さんと入れ替わりになる。カーテンの背中越しに
「ながやさん、(ストーマの出口患部)ちっちゃくなっとるねえ」の声を聞く。腫れがひきつつある。
つい顔がほころんでしまう。いいことばっかり続きますように。奇跡のように、全部治っちまいますように。
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4月29日。父にうな重を買って病院へ。母がそうめんとちらし寿司を買ってきていたけれど、
お昼ご飯にうな重食べてもらう。うまいうまいと言って食べた。よし!


今日は祝日なので看護士さんの数も少なく、以前いた看護学生さんも学校に戻られた様子。
そのさなか、父は昨日乗れた車いすが恋しくて、朝からうずうずしてた。お昼に吐き気止めを
持ってきてくれた当直の看護士さんから、今日はリハビリの先生の回診はないと分かり、それでも
乗りたんいんじゃーと訴え続けたら、弟と私とでベッドから乗り降りさせることで、車いすOKと
なった。母も喜んだし、姪も車いすを押してくれた。折しも、義妹の機転から父に介護用靴も
購入してもらっていて、それを履いて9階フロアをぐるり。談話室に家族みんなで入り、
自販機でジュースを買う。景色を見る。「遠望峰山(とぼねやま:幸田町のシンボルの山)かなあ」と
父は遠くの山を観て言う。違うんだけど、「ほうだねえ」と同意してみる。



父はしっかり喋り、車いすでも苦しい様子もない。周りをうれしそうに目線を遊ばしながら、
車いすで移動した。きっと明日には下の庭園を散策できるだろう。いいGWの始まり方に
ジンときた。予想もしてない展開だったから。
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5月1日。連日父は車いすに乗って9階フロアを母と車いす散歩している。土日祝日は看護士さんの
人数も減ってるのに、父の要望からベッドと車いすの移動を看護士さんはやってくれている。
昨日はホタテの串焼きをお土産にもっていったんだけど、「辛いのはむせるから」と食していただけ
なかったのでした。無念。
一晩実家に泊まって、母をねぎらう肩たたきをする。かなり凝ってた。無理してるんだなあと思う。

本日は父の握力を取り戻すためのグリップと、このごろものが言えるようになってきたこともあって
新聞を買って病室へ。午前中についたのに、部屋に入ると車いすに乗ってる父と、押してる母を
発見。もうすでにぐるりとしてきた様子。「外に出たいがやあ」という父に、感染の可能性もあるからと
昨晩次男がしたアドバイスゆえに、フロア周回で済ませた母。車いすのまま、窓から外を眺めながら、
そうめんを昼食に「うまい」と舌鼓。気分も全然違うよねえ。

グリップも10~40kgまで調整できるものを買ったけど、最弱でも握れないのを父はもどかしがっていた。
次回はダンベル持っていこう。新聞もスラスラ読んでて、伊勢湾サミットの記事に「誰が来るだぁ、これ」と
しかめっつら。

母とは朝のうちにホスピスの文書に署名もしたというし、明日は障害者申請の撮影もするんだって。
「おめかしせなあかんねえ」と話す。母にはいろいろわがまま言えてるみたいで、母は大変だけど、
やっぱりうれしい。「もう一周」とせがんで、母ともう1回ぐるりとしにいった。

テレビも普通に眺めてるようになったし、今後は新聞持っていこう。いいよ、このまま治っちゃえば
いいのに。昨晩「明日はメーデーかあ」と、父の意識はきちんとしてる感じが強くして、うれしかった。
世間はゴールデンウィーク。過ごしやすい気候でいられますように。
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5月7日。GWは休める限り毎日父のところに顔を出す。食事は3食「通常」になりつつあったところ、
ハーフ食に戻せ、と父が母に訴える。「昼食は麺類って約束だったじゃん!」が父の言い分で、母は
あきれ顔で「ほんな理由で断れんじゃん」とまんざらでもなさそう。父の食欲は本物で、完食できる
回数も増えた。差し入れに菓子や五平餅、たいやきがあってもぱくぱく食べる。

一度戻したことがあったと聞くけど、観て聞いてる限りは回復の言葉が似合う状態にある。
奇跡みたいに、父は毎日車いすをせがみ、母は病院の敷地内にある神社に、父を車いすに乗せて
1時間散策する。マスクさえしていれば屋外もOKなんだって。風が父にはなによりのごちそうで
外に出ては「気持ちいいなあ」という。私や弟一家も交えて、みんなで神社にお参りもできた。
その視野の片隅には、緩和ケアの病棟もある。日差しは暖かく、風は5月のものになっていて、
不思議といい気分だった。

一度、母が帰り際に、ストーマの漏れがあったらしく、看護士さんよりも詳しくなっていた母は
その始末を看護士さん共々行っていたら、ちょうど末の弟と鉢合わせたそうだ。ぶっきらとして
「なにを話したらいいか分からん」という末の弟は父にも母にも会ってくれたようだ。

母は毎日病院に通う。毎日、毎日。
ストーマからガスを抜いたり、交換すれば、排便の香りで病室は満たされるが、母はその中でも
父の食べ残した病院食や、昼食を難なく食べられる。愛の形はこういうことだと思う。
痰も便も汚いって思わなくなった。それらは暖かく、生きてるが故の証でもある。

結局、きれいごとを言っても、格好つけても、地味で頑固で強情な愛情ってのは「会いにいく」
力を持続していることで表立つものだとつくづく思い知る毎日だ。ただ、会いたくて会うという
馬力の前には、きれいごとも言葉も無意味だ。ただ、顔を観て「どお」って言うだけの毎日が
もう退屈でも嫌でもなくて、誰にも知られなくたって満ち足りるってことが、あるんだ。

父は日に日に食べるもの要求が高くなり、今日も私は仕事中に弟からメールで「今日来れるなら
おし寿司食べたいって父が言ってるので、可能だったら買ってきて」的ご要望が入り微笑んだ。

毎日の洗濯、食事、父への奉仕で母は精一杯だったのもあって、こどもの日と、姪の誕生日
プレゼントは勝手に用意して「父、母、私」から宛、ということにして渡せた。にわかに私の
体調が狂った日があって、朦朧としていた日が一日あって、母に余計な心配をかけた。
その日弟夫婦の計らいで、病院からの帰宅後、お好み焼きパーティーがながや家で催された。
美味しいものだった。

そしてあさって。父が緩和ケア病等に入れるって今朝母から電話があった。順番待ちがクリア
されたってこと。入れば「治療」は基本的になされない。痛みを最小限に抑える配慮と
体力の消耗につながる治療いっさいが省かれるところ。父はそれを知っている。
ながや家としては「ここで体調を整えて、帰宅を目指す」を目標に行くと、先生とは話してる。
理屈ではない。ながや家みんなはそう考えてる。姪も甥も病室にいればお手紙を父に書き、
「早く帰ってきてね」と書いてる。これは希望じゃない。そんなもんじゃない。

3月の手術で命を長らえ、ICUから出られるかも不明なときから、いつしかベッドに寝たきりから
点滴を取るところまできて、あまつさえ車いすで病室から出られるまでになり、談話室で
アップルティーを飲めるようになったのは、もう超人の話だし、奇跡のようなものだ。
そのことごとくが「当然」ではなく、いちいち乗り越えて勝ち取ってきたもののように思える。

おセンチになったりできない毎日なんだけど、父と母は毎日、毎日、ふたりきりを過ごせ、
喋り、怒り、話す。こういう贅沢のありようを本当にありがたく思う。
神様、ありがとう。でも一番は、父の「まだまだ」の一声に凝縮される。すごいぞ、父!
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5月8日。
昨日の弟の言葉から、父におし寿司を買っていこうとネットで調べておいた店がある。母に
実家でよくしてもらってる養蜂家さんのハチミツを分けてもらうべく、朝一番に電話してみたら
快諾してくれたついでに「箱寿司っていってね、安城の道の駅とかで売っとるんだわー」と
聞く。じゃあ、そこで買うかと車を出すと、「安城デンパーク」なるテーマパークは
休日の人手で大にぎわい。「ドブロック」も来てて「もしかしてだけどぉ~♪」と
正面ステージで歌ってた。それを横目に、一つの店に入り箱寿司を探すが見当たらない。
店員さんに聞くと定食メニューにそれはあり、一日限定15食だそうだ。「持ち帰れますか?」と
聞くと今日最初のお客さんだから、とタッパーに詰め込んでくれた。価格も半額っぽい。
にぎわうテーマパークをあとに、病室に向かうと、今日はきちんと父はベッドに寝てる。
母も付き添ってる。

「お寿司持ってきたよー」と伝えると、父は自分で電動ベッドを起こし、まだお昼の時間前では
あるけど、食べる気満々の臨戦状態。
「ずーっと食べたいって言っとっただわ」と初耳なことを聞き、どうも母が報道管制していた
様子。あんまりほくほくしてるので、「もういいじゃん。食べちゃいんて」とすすめ、
一人でぺろりと食べる。

ちなみに昨晩、弟家族が持ってきた赤福餅や日頃の食事(ハーフ食ではなく常用食)も
ぺろりといき、あきらかに「食べ過ぎ」だったようで、夕刻派手に戻してしまったと
母から聞いていた。だから朝一番に「昨日欲張って(食べ過ぎて)戻したって?」と
小声めいて聞いてみると、父ははにかんでニヤァと微笑んで、うん、と小さく笑った。
「自分じゃ食べ過ぎたなあとか気づけてたの?それとも美味しくってじゃんじゃん食べてた
だけなの?」と聞くとこれまたニヤリと目元をほころばせて「食べ過ぎたと思った」と
白状した。

「ほんでも美味しい、美味しいって食べちゃうもんで」と母も笑って軽く父をいなすが
父はいつものとぼけ顔。

おりしも病院の昼食も運ばれてきたんだけれど、父の要望のうどんで、それは私が
平らげることにした。母は父のために買ってきてたそうめんを食べ、3人で五月晴れの中、
9階病室で美味しくご飯タイム。

食べたらすぐに「車いす」の要求サインである「お出かけするかねえ」の父の一声で、
車いすが用意され、母の介添えで車いすに父も移動。このごろは起き上がりの一瞬に
腰が持ち上がらないだけで、立てば父はしっかりしはじめてる。だから重くもないし、
本人も痛がってもいない。うきうきして3人で病院敷地内の神さんにお参りに行く。

日差しはすっかり五月晴れで、しかも初の真夏日らしい。風もそよぐ程度で気持ちいい。
父とも母とも普通に話せ、とりとめのない世間話に終始するが、何年何十年経っても
会話に途切れなく、ただ無作為に、だらだら喋っていられるというだけが心地よい。

お参りを済まし、その横の日陰のあるベンチで15分くらい外を見渡す。

そのあと車に蜂蜜取りにいき、9階の談話室で少し話す。父は「ローリー持ってきて」と
乳酸飲料を飲んでた。「これくらいが(ノドゴシが)いいんだわ」と父。
つまり飲んだり、食べたりは、肺近辺を通過するときにむせるんだ、と父は遠回しに
言ってる。昨日も母に「肺がんの治療はなんでせんだやぁ(しないんだろうねえ)」と
言ったという。きっと本当は明日に決まってる緩和ケアも行きたくなさそうだけど、
そのどちらも父は私には話してこない。母はそれがきっと分かってるし、かといって
私が知ってる限りのことを父に話しても、気落ちさせるだけであることも勘案した上で、
家族3人は今日を過ごしてる。

父に新聞を買ってきたところ、テレビ欄を凝視してる。
「錦織くんがやっとる」とテレビをつけて観戦。探してたのは「野球中継」で、地上波では
少なかったけれど、BSに真っ昼間から「中日VS巨人」の好カードを見つけ、車いすの
おでかけはその中継開始を見計らって部屋に戻ってきたのだ。
まだベッドから体も起こせもしないときから、ラジオでも野球中継、甲子園中継を
父は喜んで聞いてた。これが父の日常の一番の手応えなのかもしれない。

母は明日の緩和病棟への初日は一晩泊まることにしてるそうだ。緩和病棟は入り口こそ
施錠される施設だけど、24時間の出入りが約束されてる。父も「病室が1階に変わる
でなあ」と今週は言ってたし。

私のいとこのさーちゃん、れーちゃん、のんちゃんも見舞いに来てくれた今週は、随分と
体調がいいほうだった。新しい病棟のリハビリの先生は「どうかしゃん(どうだろうねえ)」と
父も母もやきもきしてるけど、きっと上手にやってくれますよ。

「寿司が美味かった」と父が上手を言うので「ほだらぁ。また買ってくるわ」と
約束する。父と話すときは三河弁が一番奥底まで伝わっていく感じがすんなりとする。
暗に父は「また買ってくるわ」と相手に言わせる仕込みもできる人だ。
うむ、まんまと乗りますよ。その企画!
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5月11日。今週始めに父は緩和病等に移動した。9階から1階へ。なかなかに広く、簡単な
調理器具もあり、風通し、庭、日差しともによさそうな間取り。看護士さんも専門職らしく、
以前のような「ふとんだけかけていっちゃう」看護士さんじゃない、と父も喜んでいる。
なんとなれば母にストーマ交換を依存しちゃう看護士さんがいたことを、父は少し怒って
いたようだ。

今日はリハビリにタイヤ付き立ち歩き器具を使ったようで「ありゃあいいぞん」とべた褒め。
安城のおばさんが「デンマート」なるところで箱寿司買って来てくれたらしく、父、母と一緒に
楽しく食べたみたい。甥も病室で遊べたらしく、環境的にも心象的にも、この引っ越しは
いいものだったような気になる。

あと、今日は遂に父、お風呂に入ったそうで、ゴキゲンさんだった。
父には話したけど、父がお風呂に入るまで、私は願掛けで温浴施設に行くのを辞めていた。
「と、言う訳なんで、父、早くお風呂に入って!」とせがんだ週頭から3日と置かずに
お風呂に入れたようだ。「ほりゃあ、気持ちよかったわぁ」と目を細めて喜んでいた。
そうそう、父はそうこなくっちゃ。

もうテレビを観ているのがデフォルトになりつつあるし、今日なども母共々おいとまする
時間になると、ベッドの手元にラジオを置いていけ、と母にベッドサイドへラジオを据え付け
させていた。そういうわがままに母もまんざらでもない様子でセットしてた。

父が食べきらなかった箱寿司をもらって帰宅したが、さすがに美味しかった。本場だねえ。
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5月14日。父に小さな扇風機を渡したく、あちこち巡るが、適切なものが見つからなかった。
ラジオだけは2種類用意して持っていく。緩和ケアの病棟の対応はいいみたいで、父も母も
以前のフロアに不満を持っていたことが、この日の会話で分かった。母にストーマ交換について
頼りすぎてたというのだ。

この日、父は歩行補助具を使って、緩和ケア病棟ではなく、病院のほうへ歩いた。いつもの倍は
歩けた、と母。看護士さんがついてくれてたけど、もうほとんど「立ち上がり」の最後の一押しを
踏ん張れないだけで、立ってること、歩くことはむしろ楽しい様子。休憩で座った父は
「もう走れそう」と嬉々とした顔で言う。母も私もうれしくなる。

そのまま、8階に入ってる父の兄の病室に向かい、対面する。訥々とはなすだけなんだけど、
車いすで「来たよー」と父は叫んでたし、「車いす姿を見せるんだ」「いつも来てもらって
ばっかりだもんで、こっちから行くんだ」という希望はかなえられた。

帰り際、談話室に寄るとそこに「亡くなった方々と家族の書き置きノート」があるんだと
父が私に示す。母は「そんなん、いま、読まんでいい」と笑顔でたしなめる。

病室に戻ると、ストーマ漏れが分かり母と看護士さんがいつものことのように交換に入った。
「今日くらいの量になるとパニックになるんだわ」と母は言ってた。

父の看護士さんの会話の中で、これくらい歩けるんなら・・・自宅に段差はあるんですか・・など
にわかに「一時帰宅」を希望できそうな会話が出て、うれしくなる。

一方、毎週木曜に催される緩和ケア病棟の「コンサート」に父母ともに参加したらしい。
ほとんどの人がベッドに横になったまま、つまりストレッチャーで運ばれるようにその場に居合わせ、
歌や演奏を楽しむものらしい。その風景の中では、父の車いすは軽微な症状になるようだ。

帰宅後、図書館で緩和ケアの本を読んでて、「ホスピス」と「緩和ケア」を私自身が混同していた
ことがわかる。父はホスピスに入ったのではなく、「まだ出ることを念頭に置いてる」緩和ケアで
あることを再認識。
無論、癌はなくならないだろうが、よりよく「過ごす」ことをしながら「帰宅を目指す」は
今の状況では最善と思うし、父もそれを「実現する気満々」なので、それでいくことにする。

父の咳の頻度が上がって来てる。まだ痰も切れるし、今日あたりは喋ってることもきれいに
聞き取れる。

帰り道で父の好きな「箱寿司」販売店の「でんまぁと」を見つける。これでいつでも買っていける。
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5月17日。父を見舞うと、テレビを観ていた。バレーボール。今日は安城のおばさん(父の妹)が
来てくれて、ウナギを食べさせてくれたってよろこんでた。「ほぉうなぎばっか食っとっちゃぁねえ」と
まんざらでもない顔で喋る父はうれしそう。今日から103号室に移り、テレビが観やすい角度に
なっていた。朝から晩までスポーツ観れてうれしそう。

ベッドサイドにしびんがかかっていた。今朝からとにかく水分を摂れ、そしてしびんに尿を出せ、
といわれているらしい。すっかりストーマとおむつで済んでいたと思ったが、これはこれで新しい
プログラムかのかもしれない。

「近いうちに一時帰宅できるみたいだで」と父は言う。「ほれも2泊3日かもって」。
ほぉ!そんなけっこうなお話が。喋りもしっかりして来たし、毎日リハビリしてるし、食べてるし。
「ほいじゃあ、滋養つけて外ん出ても大丈夫にしとかんとかんね」と伝えると、ニタァと笑った。

今日は先だって渡してたラジオを、もう落っことして破損したって母が笑って電話して来た。
うん、いいよ、壊れてもいいって。使ったってことでしょ?そんでもって落としたんだもの、本望よ。
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5月22日。結果を言うと、父は昨日から1泊2日で「一時帰宅」を果たした。尿管をカテーテルで
つないでいたのを外してしびんにしたのは、この伏線だったのかも。
とにかく、土曜日に、朝、それも早けりゃ早いほどいいと母に言われ、9時前には病棟へ。
自宅での投薬、車いす、歩行補助具をかりて、あっけないほどそっけなく、帰宅。

父は居間に入って、いつもの椅子に座り「帰ったー!」とおおきくガッツポーズを作り、
少し泣いた。うれしかったんだと思う。
少しくつろいで、父の「立ち上がり」に使えそうな補助具を探しに出かけ、もどると父と懇意に
してた社長さんと、父の兄夫婦が来てくれていた。案の定、おじさんには「何だお前は!」と
怒鳴られたが、もう3度目で、さすがに、またか、としか思わなくなって来た。
社長さんと、父の兄の話を聞く。午後、父のお友達や、父が携帯で電話しちゃった人たちで
にぎわう。

トイレも一人で行けるようになったし、廊下もベッドサイドも、父はひとりでこなせるし、
申し分なしだった。咳も出ないし、食欲も旺盛。一緒に晩酌もした。

2ヶ月。父はついに帰宅を成し遂げた。もう帰れない、観られないと思ってた家にたどり着いた。
生きて、帰って来た。それは「いつもの風景」でもあるけど、新鮮な風景でもあった。

そして今朝、父を車いすで散歩に誘う。ぐるりと家の近所を、車いすで巡った。
そこからはもう友人知人の来訪ラッシュで、午前中の訪問者で母は参ってしまい、家族も
「せっかく戻って来たのに、会えん!」と怒りだしてるほど、とにかく客が居座る。

午後からもいとこたち、シルバーの人たちなどなど、父がのべつまくなしに電話しては
「がんばりますので」とやるので、じゃんじゃん来る。そして喋り通す。
でもこれは父の確信犯なので、がんばる。そして夕刻、18時半までに戻ればいい病院に
「笑点」で歌丸師匠による司会がラストの生放送、ってんで、父は急に17時半目標で
病室に戻ることを決意し、家族も慌ててその準備に奔走する。

全然しんみりしない家族との別れの後、母と私とで緩和病棟に父を戻す。早速テレビに
釘付けの父。看護士さんたちに「どうでしたー?」の質問にニコニコの父。
うん、まぁ、これでよかったんだろうな。

今日の昼間に、家の間取り図を引っ張りだして来て、ドアや壁、ベランダの寸法を書き込めと
父が言うのでその通りにやった。どうやら帰宅後の補助器具の段取りを、病室でやるつもりで
あるとの意図を感じた。帰る気満々。うん、それでいい。

家族もみんなくたくただし、ろくろく帰宅を祝えないままだったけど、反面「いつも通り」の
雰囲気は十二分に満喫できた、父にはいい帰宅だったと思う。よく歩き、よく喋り、
それはもういつもの父だった。車いすに乗ってるだけの、いつもの父の顔つきだった。
それでいい。よかった。まさに「生還!」の日だった。
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5月25日、仕事中に母からメール。父が来月退院できるかも、という話。青天の霹靂!
仕事後病室に行くと父はうれしそう。母は介護機器の書類だの審査だのでいそがしくなりそうな
予感ではあるが、やっぱりうれしいに違いない。

父が先週の帰宅で打った右腕が、思いのほか大事の麻酔使った簡単な手術になったようで、
手の甲まで包帯という有様。放っておくと、赤黒くなった皮膚はそのまま広がるらしく、
「貼っておくと皮膚になる素材」を移植したそうだ。なんだろ、これ。

お風呂には2日に1回入れてるし、言葉もはっきり聞こえる。今日は畳の部屋にて
立ち上がる訓練に入ったそうだが、「たちあがりはじめ」にどうしても腰に力がこもらなくて
難儀してると言ってた。それでも言葉に覇気があるし、顔のつやもいい。来月には退院。
すごい、すごいことだ。
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6月6日。今日はおとついのことから書くことにする。
まずこのエッセイをはじめたときには思い至らなかったところに進んだことに驚いても居る。

6月4日。父は退院できた。
そのために実家には介護ベッドや車いす、歩行のための補助器具が用意され、父は要介護者の
認定を受けてる。母はそのための準備に奔走し、次男の弟もその説明を受けるなど準備もしていた。

父はまだ一人ではあぐらをかいた状態から、立つことができない。がんも治っていない。
それでも緩和病棟から、出ることができる。これは3月の手術から知っているものには
奇跡でしかない。父の心臓の強さと、意志の強さが根底にあって、母の献身、弟夫婦の
助力、励ましがあってなりたっている。

退院の日、私は仕事があり、それに加えてネパール帰りの大阪出身、沖縄在住の友人が
西から、福島出身、横浜在住の友人が東から、名古屋に遊びに来るというので、18時に
集合する。理由の根っこには「大学の学籍番号が並んでるから」でずっと続いた友人で
同じ映像学科であっても、趣向もやってきたことも異なるのだが、まぁお互いがお互いに
やってることを気にしてて、ちょっかいを1年に1度くらいはかけるってのが、この6月4日
だったってこと。

友人二人を乗せた愛車で実家に戻ってみると、末の弟まで実家に駆けつけてたながや家一家は
随分久方ぶりに一家勢揃いとなり、友人2名も父母をよく知る仲間であるが故に、随分楽しく
集って過ごした、写真をばんばん撮り、買って来てくれたケーキを食べ、お酒を飲み、喋り、
笑って、懐かしみ、近況を語り、楽しんだ。

父は帰宅を成し遂げ、そこにもうこれから何度もないであろう「一家勢揃い」が「父の帰宅」を
祝うために起こり、「出会って30年」の友人3人の集いも重なって多いに盛り上がれた。

父は癌を持ったままだけど、大いに喋り、お礼をいい、家族と一緒に居間に居る。
それだけがものすごくうれしくって、うれしくって、うれしくってねえ。
当たり前なんかじゃないんだよね。来たくって、会っておきたくって、会えてるっていうことが
なんていいことなんだって思えた。

これ以降、父は自宅療養で介護を受けながら実家で過ごす。
翌日は日曜日だったけど、ついに病院に行かない日曜日を迎えた私は、友人二人と高山に
遊びに出かけ、食べたかったラーメンも焼きそばもたらふくお腹におさめ、握りを食べ、
アイスを食べ、珈琲を飲み、古い町並みを散策し、朝市でお土産を買い、ドライブを
3人で楽しみ、友人の靴を買い、笑い、遊び、楽しんだ。

こんな気持ちになれる日が来るだなんて、予想してなかった。

父の癌は残ってるけど、生きてるっていうのは、癌の有無に左右されきってしまうものでも
ないような気がしてきてる。生きるっていうのは、過ごすっていうのは、人の力のひとつなんだ。
いま、ただ、いる、ということの尊さや楽しさを味わい、分かち合えてるって思えたのって
いいなあ、って思えたので、このエッセイはここまでで、いったん終わろうと思う。

なにか、たどり着けた気がしたので。
このエッセイ書いてる間中、エッセイはほとんどアップしてこなくってすいません。
でもこれ書き続けるだけのエネルギーで精一杯の期間だったの。本当に。
読んでくれてありがとう。ありがとうね。