作成日: 15/01/11  
修正日: 15/01/11  

親が泣くぞ

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ひどいことをした時に、たしなめる言葉として「そんなことをしたら、親御さんがどう思うか」
「親が泣くぞ」と言う言葉がありました。テレビドラマなどでよく出ますよね。
これが子供の頃には全然分からなかった。誰に対して効果させる言葉なのか、その時点で
痛烈に猛省をうながさなくてはならない当人に、どれだけ意味があるのか、私には分からなかった。

本人の話ではなく、なぜ親の話をはじめるんだその人は、と私は当時思いました。
そしてこれにほだされる登場人物というのにも、ピンと来なかったのです。
え?なんでその言葉で改心できるの?なんで、どういう回路で白状する気になっちゃったの?と
クエスチョンマークで一杯でした。

親というのは、子という「自分以外の生命」に直結した存在なんですよね。血がつながってるから
特別とか杓子定規な話というよりも、子は、親があって、そこに居られるという「絶対」がある。

子というものを、そこに、今「いさせしめる」という絶対が、「親」ってものの凄みです。
子の行うことを、生き物として突き放しきれるものではなく、どこか、なにか、「絆」のような
もので、子の肉であり、骨であることを思うと、冒頭に言う「親が泣くぞ」と言う言葉は
子供サイドの気持ちっていうよりも、もっともっと根っこの部分からの突き詰めがあるんですよね。

子サイドとしては「親のことなんて知ったことか!」って言い放ちたくなってることもあるんですけど、
その場、その時に「親が泣くぞ」って言われた「くさび」は、撃ち込まれたまま残り、真の意味で
「こたえてくる」のは、人としての厚みに、年輪に太さが出てきてからのものなんですね。

この世に送り出してくれた親を「泣かす」という遠巻きに「罪なこと」を、子自身が行うという
事実は、「親本人のものではない人の分までの人生」までもを打ちのめします。
全然自分が預かり知らない、そして手出しのしようも、予防や回避も全然できないことにまで
自責の念を覚えるというのが、「親」という特殊な特殊な存在。

私は迷うのです。「親が泣くぞ」と言う言葉の、本当の意味で威力を発揮される居場所を。
自分自身の失敗や失態を責められるならまだしも、「親が泣くぞ」となると、その場では
無神経な輩は微塵も心が揺るがされないこともある。

ここにこそ、「人」ってものの気持ちのよさがあると思うのです。
ぼんやりとした連なりのようでいて、「親が悲しむ顔が浮かぶ」ことが念頭に浮かべられる人は
やっぱりちゃんとした人なんです。浮かばないからといって、即みじめになったり、不幸になったりは
しないかもしれないけれど、「親かぁ」くらいにでも自省できれば、まだ人としての豊潤は
あると思う。

親が泣いてて、平気でいられるだろうか。
本当に自分のことで、親が泣いてる様子を目の当たりにして、平気な人はいるんだろうか。
子は将来は誰かの親になり、親は子が来てくれて親にさせてもらう。年輪を重ねた人間になるほどに、
「親が泣くぞ」って言葉の、後ろ側に流れるパンチ力に打ちのめされる。

それは親のことが好きでも嫌いでも「反応はしちゃう」という事実で集約されると思う。
好みや感情以外の次元で「親と子」は「もう、そうである」のだから、無関心ではいられない。
それもあって、「親が泣くぞ」は感情の底の方から響いてくるものなのかもしれない。
「訳も分からず、感情は揺さぶられる」ことを、言葉で成してくるという、凄い方法かもしれない。
理屈以上のものを、理屈で切り込んで行き、理屈以外の結果をひねりだすパワーがある気がします。
確証はありませんが、今はそんな感じがするのです。