作成日: 15/03/14  
修正日: 15/03/14  

それはそのまま

自らを空しくしておく


ほとんどの、大部分が、埋め尽くしてるとおもっているものが、退屈で、冴えのない、
どこかでこぼれ落ちたような残念さの積もり積もったものばかりだったりすると、
元気がなくなっちゃう気がしてくる。しょんぼりするってやつだ。
でもそいつに勘付いていないふうでいたくて、いや、これで普通のことなんだと
ナントカ自分に言い含めていると、そう苦痛でもなくなってくる。
どうなるかっていうと、ぼんやりするってこと。

ひとつふたつのぼんやりならいけれど、そればっかりだと、従来隠し持っていたことに
していたポテンシャルとやらも、落ちていく。さぁ、そもそもポテンシャルがあったかどうかを
検証させる暇(いとま)もあたえず、今回の件で私は・・・とチャラにする機会を得る。暗黙のうちに。

ぐるんぐるんと、自分にまとわせてきたものが、自分なのだ。
それがある日、ふと好転をみせる時がある。なんの準備もせずにいたのに、結果だけがコロンと
落とし込まれてくることがある。

その時に、忙しかったり、何かの途中だったりすると、その好転っぽいものをすくい損ねる
場合だってある。日々、自分を空しくしておくと、すくいとれる時がある。
それは「運」のようにみえるけれど、やっぱり違うんだよね。

百万分の一みたいな運は、掴みにかかる用意もさながら、上に言う「自分を空しく」してあるという
準備があって、触ることができる。
積極さや、虎視眈々と計って手に入れるものというのは、どこか自分があらかじめ仕込んだ形跡が残り
おおむね帰結するところが想定の範囲に収まることが多い。嬉しい反面、自分の枠を越えたものには
させない、みえない力学が働いている。

ところが、「自分が空しく」させてあると、そこの真空に流れ込んでくるものは、他者や状況が
「あそこへ」と値踏んで流れこんでいくように思えます。
それは、自分の側ではコントロール外のもので、ほとんど「思った通りじゃない」ものでしつらえてある。
そうした「予定外」の流れ込みが、楽しめるかどうかが、人生の豊潤さを、苦痛を、大きく舵をきらせる。

若いうちは、なんせ翻弄されることが多くって、ひとつでも確実なものをと、うろたえながらも
欲深く生きるものでした。世知辛くなったり、狡猾になったり、欺瞞な感じになっちゃうことを
何度も味わって、自分に許せるだけのズルさと共に年輪を重ねます。

自分には、「周り」があって、なにが周りに備わっているか、備わせておくかで、自分に送り込まれてくる
ものをある程度はコントロールしてるつもりになる。そういうのを安心っていう人もいる。
年を重ねるごとに、私については、驚きたいことの方が、気持ちとして強くなってきてる。

ほんのたまたまなんだろうけれど、昨日、今日と、「予想しなかった」ことで、嬉しくなることが
2件続いた。ごく私的な事柄なのでここには示さないけれど、なんていうんだろう、生きてるうちで
「こう着状態」に押し込むしかなかった案件が、なにかの奇跡のように解決の日の目をみたのだ。

自分は全然なにもしてこないでいたものが、「時間が」解決してくれるみたいに、好転した。
結果だけが変わったのだ。ああ、でもひとつ貫いてたことはある。うんと以前に直面した苦しみや
逃げ出したい事柄に出くわしたとき、私は迎合も敵対もしなかったことがある。
つらいのに、「つらいまま」を「そのまんま」受けることに決め込んだことがある。
「それはそれ」としか扱わずに、自分の解釈を含ませない応じ方を何度かしてきていた。

「仕方がない」とも思いたくなかったし、かといって「逃げだす」のも「嫌がる」のもしゃくで
これはこれで、そのまま受け取る、と決め込んだ。感情は複雑だったけれど、堪(こら)えられると
思ったので、そうした。

それが2日続けて、ポッと花が咲く音のように、綺麗に好転してきた。びっくりしました。
そしてあのときに、「それはそのまま」と決められた自分を、小さくほめてあげたくなったのでした。
よくこらえたね、って。「決めない」って決めること、そういう空しい決意って、しにくいんだよね。
理由が欲しくて、ついついなにかをあてがっちゃう。その時の感情に、応えて、パッチをあてておきたく
なっちゃう。

でも傷口は少しづつしか癒えていかないものなのだ。かざぶたができるまでは、そうっとしておく
というのも手だての一つなのだ。その、そうっとしておく、が気持ちの昂(たかぶ)った自分に
なかなかできない。「下手にあてがわない」件であるのかどうかを見極めるのはとても難儀だけれど、
私は今回、いいものだなって思えたのです。

相手の言い分や、周りの事情、状況が、今の自分にそぐうものを投じてくる。
自分がどう思うのかは自由だけれど、少なくとも「今の自分」にそぐうものだと受け容れると
調子があうんだよね。不思議に。

そういうのを運とか運命だとか、縁とか体系づけちゃうのも、どっちかっていうと嫌なんです。
理屈だもん、そんなの。自分の解釈を、事態そのものにレッテル張りしないでいい。
起こることは、起こることであって、自分の「分かる、分からない」のものさしに再変換しないでいい。
いちいち飲み込めるものにする手間ひまは、よそごとにあてがえばいいのです。
生きて過ごすっていうのは、そういうもんだと、今日は思えるんです。
うん、今日はね。そう思えたよ。