作成日: 15/04/19  
修正日: 15/04/19  

風に当たる

なにが吹き抜けていくか


雨の日でも私は洗濯をします。軒先に干します。雨が降ってるので、乾きが悪いんですけれど、それでも
部屋干しするよりも、どこかあきらめのような心持ちも重ねつつ、「外に干したい」んですよね。
香りが違います。部屋に風を通すように、衣類にも風を通したいのでした。

今年に入って、はじめて行ったってところがグンと増えました。
浅草、倉敷、鹿児島・・・どこも気持ちのいいところで住みたいなあって思えるところばかりです。
幼少の頃から、あまり遠出やおでかけは乗り気じゃないくせに、「でもきっと、なんかの縁があって行く」と
思っている節がありました。案の定、出向く機会に恵まれて行った先々でいろんな人と話せる。

今年は特に日本各地に「大芸」の人があちこちにいて、しかも映像学科の人がちらほらと。面白いもんですねえ。

「風を通す」というのは、ものや人、そのものに変化を与えるものじゃないんですけど、その風にあたってると
ナニガシカ違うんですよね。なんていうんだろう。軽さがある感じがするのです。
遠出をするっていうのは、そこの風に当たりに行くってことでもあります。自分ってものはどこにいても
自分なんですけど、「慣れてる風」から「いつもと違う風」に、気分がひっぱられます。

返せば、「部屋の空気を入れ替えない人」って、なんとなく分かりません?ああ、この人、きっと部屋を
閉め切ってるなって。風通しが「必要」な人はそれを含み持った性格になってます。かと思えば
「無理矢理にも空気の入れ替え」を志す人もまた、それゆえに目立ちます。旅にもイベントにも
その人の醸し持つ「風」が吹き込んでいるものが良質なのであって、「自分がやりたい」ということを
突っ走るだけでは、どこか「空気」にはならない気がします。

年齢を重ねるごとに発揮されてくるものは「自分がやりたかった」ことよりも、仕込むとなしに仕込んで
きたものが、ふんわりとにじみでるもののような気がします。意思の力でできることもたくさんあります。
生きてる中で続けられるものは、意思や決意よりも、「漫然と決めてたこと」であったりします。
そういうのが続けられるからです。続くことが、その人自身でもあります。

風のように、まるで無害なふりをしてそよいでくれているのに、いつのまにか、いつのまにか、
その風に当たっていたことで、自分が風の押した方へゆらいでるってことが、人生にはたくさんあると思う。
そしてそれは悲しい変化とかではなく、たどりついてそうなったって、風のせいにすることなく
得心がいくものだったりします。風に当たってなければ、そうならなかったのにね。

そんなわけで、今日も天気予報・雨のさなかを洗濯するのでした。