作成日: 15/05/17  
修正日: 15/06/13  

短いエッセイいくつか

とりとめはございません


朝目覚めて、さー、メールチェックでもしよかーとマックブックを抱えて、どっこいしょと
光の入る部屋に移動して、ああ、こんな時、タブレットだったらもっと軽いとか、ああ便利とか
思うのかなと思ってみた所で、ようやく「流行もん、持ってないなあ」と気づきました。

ipad持ってないんですよね。加えていえば、iphoneもない。
ケータイは「スマホ」。ガラホよりもうんと昔に出たアンドロイド搭載の携帯電話型。重くて
インストールできるものが少ないけれど、なぜだか手放す気持ちになれないこのごろ。
周りはiphoneばかりなのですが、「電話」機能以外をあまり外出先で使う必要に迫られていなので
案外これで済んじゃうのでした。

音楽は「ipodクラシック」と「初代ipodシャッフル(白いスティック状のもの)」があるので
コイツで聴ける。たっぷり容量も残っているので楽しめる。
初代ipodシャッフル君などはジョギング時には軽くて結構ですナ。洗濯機にもまれても壊れなかった
タフさも評価しますゾ(2度も!)。

要は最新のものでなくとも、余り不自由もしないということになります。
SNSもそんなに必死なものじゃないし、いざガジェット使う段になるとパソコンのほうが
わたしには使い勝手もいいので、タブレットに億劫な気持ちもあるのかもしれません。

思うに「そんなにどこいっても持ち歩きたい」ものはなく、むしろ「離れたい」頻度が高いっていうのも
あるのかもしれません。「便利」に少々つかれはじめてきてるのかも。それくらいには利便性って
ものが行き渡ってきたんでしょうか。少々の不便があると、ホッとしてる気配すら自分に感じます。

私個人としましてはモノを持つと機能ぎりぎりまで使いたがる傾向があるので、単機能でチューンの効く
マシンを好んでるのでしょう。パソコンなんかに顕著に感じるんですが「まだ使いきってない」ものが
わんさかあって、「その次」に移行する心の準備にはいれないでいるという、ある種のデジタルデバイドの
敗者側なんでしょう。

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私のことを「ながや」とか「ながや君」「ながやさん」と呼ぶ人は、おおむね私のことを昔から知ってる人より
ニックネームで呼ばれてる瞬間に出くわすと、違和感を覚えるようで、イントネーションも、呼ばれ方も、
覚えていられないケースが多いのが昔から不思議だった。

いとこや旧友から呼ばれている呼ばれ方を聞き受けて、ふざけて使ってやろうとする人が、狼狽したり
躊躇したりするのはなんででしょうね。再現ができないようです。語感とか流れとかが掌握できない
様子で、言ってる本人がなぜか照れていたり、おや?あれ?これであってたっけ?って顔つきになるのです。
これってなんなんでしょうね。多分私が普段みせているたたずまいというか、物腰が、旧知の人のそれと
違いすぎるんでしょうね。
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鹿児島メモ。
●鹿児島空港から、鹿児島中央駅、ないし天文館まではシャトルバスでおよそ40分。
●空港出口2番にバス停あり。市内まで1250円。チケットもあるし現金でもいい。
●一方、鹿児島中央駅の前にバスターミナルがいくつかあるが、鹿児島中央ターミナルなるビル1階より
 「東20」なる停留所から、帰路につける。
●市内には路面電車が走っており、170円均一料金
●城山なる小高い山から桜島を見れる。
●バスがたくさん走ってる。
●豚骨ラーメン、さつまあげがベラボーに美味い。
●市内に「灰」を捨てる袋がある。桜島の降灰は鹿児島の人にも大変みたい。
●ジェットスターで席を取る時は、最前列だとウェブチェックインができない。
●空港カンターでチェックインしたら、そのまま保安のところで、金属チェック。
 財布の中の名刺入れとかipod、ライターなどけっこう金属探知機でひっかかる。
 あとはカウンターの前で入場を待っていればいい。
●観光地ってのはあらかじめ「行きたい所」をおさえといた方が、時間の限られた中ではいい。
 「迷ってる」時間はかなり惜しい心持ちになる。
●前回はマフラー、今回は眼鏡と、鹿児島に行く時には必ず何かを失う。そして新しいものへと移行する。
●こんだけメモを知っておけば、あとは楽しむばかり。
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阿部真央さんが大変によろしい。久々にCDをありがたいと思い、近くに、手元に欲しい歌手となる。
交換の利かないユニークさは水際立っている。鮮烈で、おさまらない勢いにあふれてる。
それが若いうちのものか、永続するものなのかは分からないが、「彼女とその他」を見分けさせる濃さがある。
なにより、その余りに余った勢いが、聞く側を大きくインスパイアすることが嬉しくってしようがない。
きっと当人は「そーゆーもんなんで」のスタンスを守ってくれそうな予感がする。だから、周りが寄っていくことを
躊躇させない魅力が有り余ってる。その「あり方」の潔さがとてもいい。とてもいい。
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びっくりするくらい、「他人の気持ちが分からない」人が多いことにこのごろ気づく。
それが若者の話だけでもなく、いい年齢の年配者にも、中年にもうじゃうじゃいるってこと。

目先の、自分の行動半径内に関与しないことに慣れてるってことなんだろうか。全然想像力が足りないままで
大人になってる人がいる。本人もどこかかしこかでその違和感を感じてる風ではあるけれど、自覚を持てない次元に
それを予感してるので、「自分のこと」としてとらえきれないまま、被害ばかりを被っている構図になってる。
結果、「被害者」の面構えになってしまい、怒ったり泣いたりまではできるけれど、そこで対策全般が
潰(つい)えてしまい、バタンキューとなる。まさに茹でガエル。

本人はそれでいいのかもしれないけれど、バイタリティーのあふれた人たちのさなかに放り込まれると
本当に餌食のように食い漁られてしまう様子が不憫でならない。むざむざと抗(あらが)いもせずに
負けを受け入れ、ポカンとしたまま事が終わる。なんにもわからない顔つきのまま、ただ獏とした
悔しさしか「予感」できないぶざまさが、あまりにも傍目に不憫すぎる。打つ手も準備も少なすぎる。
(そしてそんな目に遭ってるのになにも学べないまま。拾うつもりもハナからない。誰が手を差し伸べるんだよ!)

生きる事に備えをするというのは収入や生活全般もあるんだけれど、心根の中に「人の中で生き抜く」という
なにより先行しておく「必死さ」が根っこを張っていない事にはなにもはじめられない。
だってそうでしょう?人はそこを察して、そこをみて、人に触れていくんだから。

根性論を言ってるんじゃないんです。ガッツとか、そーゆーんじゃなく、ぼくらは「生き物」なので、
生き抜く、は肚(はら)の底にしびれるように据わってなくちゃ、生きようがないってことです。
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ここ数年のネットニュースの質の低下が際立つ気がします。新聞とってて良かったって思う事が回数的にも
増えました。テレビはネットニュースに同列です。ラジオの方がまだ信用できる。
ネットニュースの「見出し」倒れさ加減が大変下劣です。「気を引く」ことに注力しすぎてて身がなさ過ぎるのです。
しょんぼりする回数を増やしてくるので、厭(いと)うことになりました。
「一斉に」「多くの人がそうであるから」でやってると、随分ひどい方向にもってかれますね。無自覚に。

本当に起こっている事を、正確に地道に「知りに行く」手間ひまお金をかけないと駄目にされますね。実に。