作成日: 16/11/20  
修正日: 16/11/20  

正しさの度合い

はっきりせなあかんもんかね


韓国大統領パククネさんがえらく国民に突き上げられている映像が毎日ニュースに
流れる。日本人の感覚からすると、ああまで謝罪を求める国民意識は理解しきれない
領域で、こういうのはちょっとなあ、と心が離れる。

このごろは朝起きてもテレビでニュースを観ないようにしてて、ラジオも避けてる。
ネットラジオでジャズばっかり流れてるチャンネルにして、ニュース類はせいぜい新聞で
読みたい欄だけにとどめるようにしてから、精神衛生がとてもよくなった。
まぁつまり、ニュースといえども観れるように観ていては、心が痛むってことだ。

さて、今週、一緒に働いていた30歳半ばの子が、突然社長さんとけんか腰になって、
仲裁ってわけでもないんですけど、私がいきさつをみるように同席することがあった。

結果を言うと、30歳男性はその日限りで仕事を辞めることになった。
本人は「言ってることは正しい」と自分の主張をする。社長さんも会社のバランスから
今できる最善は尽くしてるところを説明するのだが、「自分には理解できません」を何度も
発し、結局のところ「理解できないものは受け付けられない」の一点張りにされては会話にも
なりようがなく、私もそれでは妥協も突破も成り立たない旨を伝えるんだけど、無駄に終わった。

「正しい」で貫くっていうのは、「誰の、正しい」かでも随分進む方向を変えるものだ。
「みんなの正しい」なんてものは世の中にはないし、、「自分だけの正しさ」なんてもので
人に突っかかっていくのでは、どこまでも調和が生まれず、自分の態度故に、居場所を失う。

それでもいい、人もいるから、一概に助けも翻意も促さないんだけど、ひとつ心に引っかかったことがある。

「言いたいだけ言って」おきながら、その結果が「思いがけない」ところに自分を運んでしまった
ことを「驚いてる」人を観て、それこそ私はびっくりした。

当たり前なのだ、言いたいことを言う、っていうのは、「なんの責任も伴わない」行為ではない。
無被害で済まないだなんてことは、発言の前からようように想像のつくところだと思うのだが
今回はそうでもなかったようだ。

言いたいことを、無被害なままで言い続けたい!
相手のいい分は「理解できない」で済ませて生きて来れた人、にびっくりしたのだ。
そんなことってしていいの?大人が?こそが私の驚きだった。

無礼であることは、無知とも違うんだけど、他人を巻き込むことには慎重であるのが
世の中の大人ってもんだと私は思っている。ときどき、ここいらへんをすっ飛ばしてやらかす人は
たしかにいるけど、それはその結果をもってくつもりなんだよな、と私はもう関われない。
結果は自分に宿る。そしてなくならないし、離れもしない。

それが怖くて、人は慎重さを備えるものだと、人生30年も生きてたら分かるはずだ、という当方の
感覚も大きく揺らいだのも事実。

「はっきりさせない」からこそ成り立ってる社会もある。
そこへ「はっきりさせたい」だけの、一見「正義」っぽい主張で、貫かれて、ぶっ壊れても、
「正しいから」ゆえに霧散してしまう社会であっては、「正しさ」は適切なものにはならない。

わたしはどちらかといえば「はっきりさせない」擁護派。

その30歳男性のいいところもたくさんあるし、たった一面の話で、人間関係がこじれにこじれる
ことが念頭になかったとも想像しにくい。それまでのキャリアに釣り合わない一時の激昂で
なにかもっといいものが台無しになっていく2時間を今週は過ごして、疲れきってしまった。

なんども「落としどころを」と探るのだが、「自分のいい分は正しい」「相手のいい分は理解できない」
では、もう話をする必要がなくなってしまう。
うん、わかった。じゃあしたいようにしてくれってことになる。
それはなんというか、むなしい時間だった。