作成日: 18/06/06  
修正日: 18/06/06  

ベストじゃないときなんて一瞬でもあったっけ

ないよ、そんなの


以前のエッセイにも書いたろうけど、父が亡くなってから、隙があると私は
父の生き様に対して、父に戻ってくるものが少なかったんじゃないかとよく
考える。父の生き方は、人に尽くすことに随分手をかけていたと思う。
家族にも、地域のコミュニティにも、父は尽くしてる人だったと私は思ってる。

そうはいっても、人間なので、実は父を好意的に言う人ばかりじゃないのも
分かる。父のどの性格からでたものかも、父をよく言わない人を鑑みると
なんとなく理由がわかる。

父の死に際して、もっと父はうれしいことや楽しいことが、もっともっと
あっていい人だったと、私は物足りなさを、父のことなのに、思う。

苦しい時もあるし、悲しいこともある。その時間に応分な喜んでる時や
楽しんでいる時もある。

現状を打開したいと思ってたりするのに、身体も、心も言うことを聞かないほど
打ちひしがれてる時がある。そんなことしてる場合じゃないのにって。
横になって、惨めだなって思ってたりできるのは、余裕があるからかもしれない。

でもね、
横になってようが、発奮してハッスルしていようが、同じなんだとも思うんだ。
平常心でいても、無関心でいても、その時々に「そうする」って決め込んだ
自分の判断は「ベスト」なんだと思う。そこでとった行動も、思慮も、
たとえ足りなくても、至らなくても、過剰であっても同じで、「ベスト」
なんだと私は思う。

節目節目でなにか決めて生きてる。
その岐路でした決断は「それ以外」があっても、やっぱり「これにする」と
その人が決めたんであって、やったんであって、もう、それはどうしようもない
ほどに「ベスト」なんだ。

たるんでる時は、それがたるむべきベストのタイミングであって、
超調子よくしてるときには、それが調子づくべきタイミングだった。
渾身の力を込めて泣いてたんだとしたら、そこで泣かないでいつ泣くよって時で
あって、
地平線の向こうまで延々と続く無感情でいたいときには、微動だにさせない
魂の凍結を、岩よりも硬く無機質に貫くタイミングなんだ。

人からの拒絶も、離反も、悲しくてもできてしまえるのは、それがベストだからと
自分が推しているから。ベストだから。それ以外の選択はなかったから。
それを他人がどうのこうの言えるのは助言でもなんでもない。
取り入れられるのもまた、自分自身でしかない。融和、思いやり、援助、
これらができるのも、また自分がそれをベストに据えるとき。

今この時に、自分を不幸だと言える人は、それをベストに吸え続けて来た結果を
もらっているのであって、いいも悪いもなく、受け取って生きていけばいいのだ。
連綿と続く「生きる」時間軸の上で、一瞬一瞬のベストの積み上がりが
こしらえ、しつらえて、仕上がった「自分のベストの連続たち」として、
毎日毎日目の当たりにしていられる。

返すと
「ベストじゃないとき」なんてあっただろうか?

「自分じゃ決められなかった」っていいわけもしたくなる。
それでも、「決められないさなかにあった中では、ベスト」のチョイスを
私たちはしている。行動も、思考も、ベストじゃないものなんて、そのとき
その瞬間に、ないのだ。

父のことを湯船につかりながら考えてたら、いまさら泣けて来た。
そのあとで、今このエッセイに打ってることを、思索しはじめた。
父がベストじゃないときなんて、なかった。父なりに悩んだり困ったり
抗ったりしながら、都度都度のベストを、あの人は出して来た。
集中治療室で、指しか動かせない時は指を動かした。
内臓が機能を停止しても、父は生きたいって言った。

私は父のことを書きながら、自分の中の思索のなにを投影しているんだろう。
ベストばっかりなら、自分を納得させられるのか。こんな小理屈で?

これ、打ちながら、書きながら、浮ついてる自分の中の何かを
着地させたがっているのが、ぼんやり分かる。怖いような、不安のような、
前向きの言葉で、真綿でくるんでやろうと試みている。

きっと、生きるというのは、見返りが何かちゃんとあるもんじゃなくて、
きっとどこまでも、なんにも、ないんだと思う。
(すねて、卑屈になって、悲観しての言葉じゃないから、誤解なきように)

こういうふうに打ってみて、「見返りがあってほしかったんだと思う」と
最初に打たない自分に出くわす。父にはね、本当に、もっとたくさんの
見返りがあっていい人だった。多分、悔しいんだ。

報われてほしかったんだ。
でもそれを推し量るのは、父の生き方がベストである以上、非礼な
ことかもしれない。ベストじゃない人なんていないもんな。
一番いい筋道を、自分に描いて、歩いてみて、誤ってても、運がよくても
「受け入れ」て、生きて過ごしていくんだ。死ぬまでずっと。
死ぬまでずっとだ。

そう思うと、「報われなくても」、「べストばっかりだった」という
連続である「生きて過ごす」というのは、もうそれで、存在価値十分
なんであって、他にやりようもないことなんだなと、結論する。

随分散漫なこと書いてるな。こじつけみたいにも見える。
今はこういうのが要るんだよ。今はこれでいよう。