作成日: 18/07/06  
修正日: 18/07/06  

業縁(ごうえん)

望むと望まざるとに関わらぬもの


「ブログなパリとも」の方に乗っけた記事が先行してて、案外うまく
書き出せてたので、引用からはじめたく思います。

「五木寛之さんの本で知った言葉ですが、出典元は歎異抄ですから、
 親鸞さんなんですね。気になる言葉なんです。

 巡ってきたものが運良く災難へと押し出さないものであってくれただけの
 ことで、自分が罪悪を為さずに済んでるだけのことを、威張りもできないし、
 ただ正しいのだからと、他者を諌めるに値する人であるわけでもない。

 手を汚すことになってしまった人にも、わけがあり、いきさつも言い分も
 あったろうに。さりとてお咎めなしがいいとは言わないですが、
 自分が何か殺めるとか、害をなすことを「絶対にしない」なんて、ものが
 わからなすぎてると思うんです。

 近頃頻発してる無差別に人を傷つけるニュースの怖いところは、事件そのもの
 よりも、どこかで自分が「そっちの側」の人の心根に何かに、心当たりが
 あるかもしれないと言う、言葉にしてない内面じゃないかと思うんです。

 「おとなしい人だった」「普通に見えた」人が、狂気にも似た殺傷を、突然すること、
 どうですか、本当に「自分は、しない」と言い切れるでしょうか。そこから
 物を言ってると、見ないで済ませてるものがありますし、その立場こそが温床とも
 いえなくもないのです。

 いつ、どんな巡りがあるかもしれませんから、自分にも他人にも、軽々に正論で
 声高な態度にならないよう心がけておかなくちゃ。」

以上引用でした。

いやぁこのごろ、なんかインターネットの流れが心地悪くて仕方ないのでした。
ネットの記事も、世の中に起こっていることも、どうも胸に悪いものが
去来する頻度が高くなってます。

「目の前に見ているものが、自分に反映される」という考え方を私はしてますので、
「なにを見に行くか、触れにいくか」は選別しておきたいのです。いやいや、
「嫌なものは見ない」とか「好きなものにだけ触れていたい」なんていうのも
少し弱ります。なんでもかんでもつまびらかにしてほしいとはいいませんが、
ちまたに出回る大学絡みの醜聞や首相の縁故贔屓な醜聞にまみれてて、
どうやって正常な心持ちが保てるかは、厳重に自分で視野の工夫が必要と思います。

「子供が親に食事を与えられずに謝罪の言葉を書かされても殺される」
「新幹線車内で、見ず知らずの人を切りつけてまたがって刺し続け、死ぬまで続ける」
「省庁に勤める人が政治家を守って嘘をたっぷりついて謝らない。政治家も守らない」
「あおり運転をさんざんやっておいて、人を殺めることになる」
不遜な態度ばかりが頻発しますね。たんまりでてきますね。
これで正常さをどうやってみつけていけばいいんでしょうね。こんな情報を
ぽんぽん放り込んでおいて、自分一人が生きるのに、適切な判断を目の当たりにも
できないまま、ひたすらぽんぽんと放り込まれて、詰め込まれて、大丈夫な
はずがないんです。

犯罪を犯す人のいきさつには、そこに至るまでの思惑や考えを募らせる時間が
ありました。犯した人は、自分のなかのうちでも、ましなものを選んでそうしでかした
ってことですよね。さんざ選んでそれでいくって。
「それは駄目だ」って周りの人が言ってなかったことはないと思う。
言われても、そうするしかなかった奴らのみじめさや捨て鉢な態度は、
「駄目だろ」だけじゃ、駄目だろ。
全然食い止められてない。全然助けにもいってない。被害者が出現するまで
わざわざ待ってた気配すら、事件たちには感じる。起こるべくして起きて
「駄目だろ」って一斉に、みんなが言って。

これは虚しいことだ。

こんだけ頭のある人間たちがそろっていて、連携するメディアがあって、
こんなに非力で、助けられなくって、みじめさを助長させて、
ふてくされるよ、普通の神経なら。あやめるひとも出てくるよ、このまんまなら。

業縁(ごうえん)の捉え方に期待を見つけるのは、いわくいいようのない感情から
なにがしかの間違いを犯すことになる人を、まるきし「悪いやつ」扱いから、
少なくとも「同じ人として、その立場にあったら」と並んで立つくらいの位置には
降りていけてる、姿勢の良さが伺えること。

それはある程度、人の中に余裕とか思考の余地、という懐(ふところ)が
いるものだろうけど、一斉にさ、ただ貪るように生きて、過ごすってだけの
中じゃ、そればっかり見て生きてたんじゃ、そりゃ「普通の人のありよう」にすら
たどりつけないだろう。

抗(あらが)えないものの中にあると、その人が思い、感じたら、抗えないもの
なんだ。犯罪であっても犯すのだろう。自分の中に渦巻いて、おさまりの
つけられないものが暴れ回って、狂ってるんだ。狂いたくて狂う人がいるだろうか。
自分のことを、自分で手綱(たづな)を放したんだ。あきらめたんだ。
自分ではどうしようもないって。

自分でどうしようもないってことを、味あわないで済んだ人生を送った人が
たった一人でもいるだろうか。誰もに心当たりがあって、誰もに救われた
記憶はないだろうか。この話が微塵にも理解できない人がいるだろうか。

業縁のさなかに、ノーコントロールの嵐の中の舟に、自分のぶざまさとやりきれなさの
まっただ中に、正しくなくたっていいから、智慧が欲しい。本当の智慧があってほしい。

爆発しそうな内圧に、ねじ伏せて来れそうな外圧で押さえ込むなんてしつらえでなく、
もっともっと他の手だてが、私はあると信じてるのに。分かってないけど、
信じてるのに。信じてるので、あるはずなのに。予感できるのに。
だから、業縁って言葉を謙虚に受け止め続けたい。