作成日: 18/12/08  
修正日: 18/12/08  

人生はめぐりもの

すべては自分発信


名古屋の一角で美味しいオムライスを元アルバイトだった子で、今や編集肩書きでチーフの
名称の子と食べました。ふんわり美味しいフワトロオムライスでペロリと平らげました。
その子はお仕事で毎日毎日夜遅くまで頑張ってました。任された仕事をこなそうと
一週間泣いてて、涙腺が緩くなったと言ってました。話を聞いてても、その年齢で
頑張ってるのを褒めてくれる人がいてもいいと思えるものでした。

話してて、自分の境遇と大いに重なるところがあり、それまで自分のことで言葉に
しきれてなかったものが鮮明になってきたので、エッセイにしたためてみます。

「自分は頑張ってる」と思ってる、もしくは感じてる人は、根っこの部分で「頑張ってるのに」が
理由に、どこか「周り」を責め立てる構図になる気配があります。私自身がそうです。
でも傍の人には「あなたががんばってるからって、どうだというの?」って手合いでしか
見られてなことも、世の中にはままあるものです。頑張ってる当人ほどには、周りには
思い入れる理由もないのもまた事実です。

「自分は頑張ってる」と思えてしまえるのは、そのスタートの時点ですでに「自分の見えている」
ものだけで思考して、完結していることも分かってきます。外野の人から見えてるものが
その人自身には「思考」「認知」の枠外であったりします。自分で「分かんない」部分を
他者は案外分かって、見ていてくれています。そこを評価したり、助力したくなるかは、
全部外野の人たち、つまり他人の恣意的な、思いつきによるのです。

しかも自分自身は最初から最後まで「気づくこともできない」方向から、自分を評価
されるものだから、仮に自分自身を見ててくれた人が助けに動いてくれても「偶然そうした」
行為にしか映らず、感謝の念も芽生えないこともありますし、悪くすれば、他者がよかれと
してくれた善意の助力を「そんなのは、今は要らない」などと拒んでしまうこともあります。
意固地になっているのです。

自分以上に、自分を見やってくれている他者から発せられたことを無碍(むげ)にするのは
実に愚かしいことです。他者がやって来てくれることは、自分自身にいいものであるように、
縁あって巡ってくるものなのに。

もちろん正反対のこともあります。嫌がらせみたいなものも、やはり周りの人が
「その人にふさわしい」と判断したものを投入投下してくるものです。その人が
「嫌がる」ことを知るほどに、その人に造詣があるからこそできることなのです。
ですから効果があります。やられた当人は、ちゃんと傷つくことでしょう。

いいものも、悪いものも周りが投入できるのは、あなたを周りの人がちゃんと観察
してくれているからです。よくも悪くも、その時にあなたにふさわしいものをギフト
してくるのですから、あなたは受け取ればいいのです、ってこと。

だとすれば、自分自身が認知したり、分かってない部分まで見られているのなら、
自分の側にできることは、「洗練しておくこと」か「みんなに愛されること」なんでしょうか。
媚びるってことじゃないですよ。媚びたりへつらったりするのは、「愛されること」
ではなく、根っこに狡猾さを覚えられることなだけで、そこにも「相応」の態度で
応じられるでしょう。当然で簡単なことです。

自分を鍛錬し、新しいことを始めていくのに際し、「自分の分かってないこと」からの
攻撃や、排斥、邪魔立ては必ずついて回ります。なにより、自分自身が弱り切る局面まで
追い込まれる可能性もあるのです。

そんな時に、上に書いて来た「愛される自分でいるかどうか」は結構死活問題なのです。
もうひとつは、「そんな自分を助けてくれる人」を自分が用意して来れたか、もまた
重要なことです。口では色合いのいい、正論を吐く人は、いざというときに、真っ先に
いなくなります。普段黙って見守ってくれてた、真に「自分を見ていてくれた人」だけが
その局面に声をかけ、助力を申し出てくれます。人の真贋をそのときに思い知ります。
なにを自分は準備して来れたのか。自分以外の人までが「助けたい」自分でいられたかが
はっきりしてきます。してこなかった準備もはっきりしてきます。でもその瞬間まで
まったく「気づきもしない」ことなので、そこで不幸になったって「運が悪かったなあ」
くらいにしか思わないよう、自分自身を「盲目」にしつらえて来た人の結果でしかありません。

違います。
自分の身に起こることは、自分が周りに「そうさせる」に足る態度を取り続けた帰結
でしかないのです。自分の身に起こることは、自分に「戻っておいで」と誘導した結果で
あると言い換えてもいいかもしれません。だってあなたに「相応のもの」を渡す気に、
周りの人をさせたのは、ほかでもないあなた自身でしかないのです。
あなたがいなければ、「そうする気」にすら、ならないじゃありませんか。
あなたがそこにいて、あなたに「効果」することを、あなたを見て、周りの人が
「ふさわしい」からとギフトしてくるのです。受け取るほかないもの。

なにかをはじめたいと思うのなら、味方が多いに越したことはないでしょう?
なら、鍛えるべきは「自分が認知できない」部分までの鍛錬じゃないですか、って
今日話した子には伝えたんだけど、まるまる、それって自分に投げかけた言葉
だったりするのです。

ピンチにぶつかるのも、「自分のやり方」でそれまで生きて来た。あなたの「やりやすい」
やり方が「そろそろ通用しなくなって来た」だけのことが、明確になって来ただけのこと。
実は前々から、その「ピンチ」は、「あなたらしさ」ゆえに生まれでたもので、同じ症状でも
他人には「どうってことのない」些末な事柄。あなたが、あなたらしくいたからこそ、
その目の前でむくむくと大きくなった「ピンチ」に対峙することになりました。
あなたが作り上げた壁です。あなたがしつらえた障害です。

あなたが、普段「生きやすく」あるために「自分に有利でわかりやすいやり口」ゆえに
積み上げたやり方には、「あなた意外の人には不愉快だったり、やりにくかったりすること」も
混じっています。他人のその理由を差し置いていることは横において、普段あなたは
生きやすい方を選んで、選んで、何度も何度も「自分らしさ」を重ねて生きてきました。
その分、あなた以外の人にはその「やりにくさ」「不愉快さ」は重ねて積み上がりました。
「あなたが(自分自身では)それに気づかなかったらから」、だけで、それは「なかった」
ことですか?違いますよね。ずっと、それはあったのです。あなたがやりやすい、だけの
ことの裏で、あなたが起こした行動に、気持ちに、反映された他者の思いも、行動に
まつわる影響に翻弄されたことも、ちゃんと起こっているのです。

ゆえに、自分に起こること、というのは、「還って来てること」なだけであって
偶然でも他意のあるものですらもなくて、「あなたに相応」で、還るべくして
還されただけのこと。それを「いいこと」とか「悪いこと」とあなたの判断でみやるのは
自由です。悲しかろうと、嬉しかろうと、受け取る他ないってこと。

自分に「巡らせてくるもの」、しかも「自分が認知できないもの」までも含めて
「いいことがありますように」という生き方を模索するというのは、そういう部分も
勘定にいれなくちゃね、ってな話を。オムライス食べた後にした午後でした。