作成日: 18/12/09  
修正日: 18/12/09  

住めば都と申します

どこでも大丈夫


かれこれ15回近く引っ越し続けて来た私がいうのもなんだけれど、そんなに行きたい
住みたい場所があったわけじゃない。でも縁あって、あちこちに住むことができました。
近しい友人はよく知ってるけど、出不精で、一旦引き込むと、結構もう出て行かないのです。
億劫なわけでもない。それほど人に会いたがってるわけでもなさそうなんだけど、
どこか「いつでも会ってもらえる」などという自負もどこかにあるみたいで、いつでも
いいなら今じゃなくても、と着想が流れてるみたいでいけませんいけません。

と、都会に住みたいなどという願望もあまりない。だから首都圏に住みたいと今まで
思ったことがない。縁あって大阪や名古屋には住んだけど、便利だなーとは思った。
銀行もお店も近い。実家に住まうとどこに出るのにも「遠い」。でもデメリットって
それくらいで、我慢のならないほどでもない。そう思うと「欲しくて仕方がない」ものは
ほとんど存在していない。事足りてしまうのです。

プライバシーは確保されていなくちゃ、って思い込もうとしてたきらいもあったんだけど
それもそれほど必需品でもなかったみたい。なんとかなりますね。

ただ、「過ごしてる」ことで、「軽くいられる場所」と「重い場所」があるのは実感
できます。それはぼんやりしてる時に、気持ちの持ってき方に工夫がいる場所と、そうでも
ない場所があるのは実感してきました。当然、軽い気持ちでいる方が、ステップは軽やか。
街に出るほどに、軽くなるのは確かにあります。若い人にはそれが必需品のように感じる人も
いるはず。実際、田舎にあってはなし得ない「たったの一歩」の踏み出しやすさは、
街に住んでる方が容易ではあります。かといって、必須の条件でもないですけどね。

街に住まえば、ざわざわする心持ちを楽しめるし、田舎に住まえばぼんやりのんきさも
味わえる。その時々でどっちも捨てがたく。普通にたのしいものです。

くたびれやすくはなってきましたので、気苦労の重なる状況は避けたいなあとは
常々思うようになってきました。齢を重ねるというのは、どこかのんびりを決め込む
隙を探す行為でもあるようです。今の日本人はなんせストレス異常です。つきあいきるには
少々馬鹿でなくちゃ、すぐに壊れてしまうのです。

来年にはもっと都会に飛び出すかも、って子の話を聞いてて、そうか、これからざわざわ
できる場所に身を置くのかと、そういうのが楽しみにできる若さを、ちょっとまぶしくも
思ったりしました。なにか拾えるといいな。で、大輪の花を咲かせて、面白い話を
持って帰って来て欲しいものです。

現代には「隠居さん」があんまりいないんですよね。落語にはあんなにたくさん
でてくるのに。お金持ちってなんじゃなく、「ご近所の隠居さん」がいないこそが、
現代の貧相さのような気がします。心持ちにゆるやかさがあったって、罰は当たらないのに。
まあ人生100年時代に「隠居さん」なんてものが出現できたら、長屋中「隠居さんばかり」
なわけですから、熊さん八つぁんの側がお留守で話にどうも面白みがないわね。

おっと脱線しました。ともかくも、住む場所で生きるのが人ですから、そこが面白いか
どうかってのは生き様にも色や輝きを照らしてきますものね。実力外のもので、
自分に彩りや艶が出たって、「照らしてきてくれたもの」の照り返しであったのなら、
ふと自分が一人立つ時に、空っぽであるのが知れるだけってのも、つまんないな、と。
街にいると、そこいらへんが麻痺するかな。でもそういう陶酔も、ヤングのうちには
いいかもしんない。でも年寄りは、力を蓄えていなくちゃ、楽しめる期間とは思えないん
だよね。枯れていったり、しぼんでいく期間でもあるけど、なにごとも終盤が一番
たのしいと私は願っている方なので。そう思いません?