作成日: 20/05/15  
修正日: 20/05/15  

なくなっていくものを見送る

おしまいをみてる


皆さんは要らなくなったものはどうしているだろう。ゴミに出すだろうか。
じゃあつまりゴミ箱に捨てたら、それまでですよね。そこから先の行方を知らない。

燃えるものは燃やすでしょうし、燃えないものは燃やせないものを集めたところで
埋めるんでしょうくらいはわかります。でも、見ないで済むんです。

このごろ燃えるものを、小さいストーブで焼きます。近くの人から苦情もあったり
しますから、風向きやひとけを見やって、焼きます。

火をつけて、ものが焼けて、火が立ち上って、煙を纏って、黒くなり、白くなり
ぼろぼろになる。そのあと、しばらくしばらく冷たくなっていき、風がふくと
ぽろぽろと灰になって四散していきます。本当に、さっきまでひとつだったものが
まったく形(なり)を変え、てんであっちこっちに散って、戻りません。

一通り見てるんです。毎回燃え方は違うし、毎回違ったエンディングを迎えます。
最初、なんで私はずっと火を見てるんだろうと思ってました。放火犯の気配でも
あるかしらと自らを勘ぐるほどです。でも今朝はこう思いました。
ああ、なくなっていくまでを、みたいんだなって。

瀬戸内寂聴さんの番組がちょうどやってました。その中で人は生まれる事は
選べないけれど、死ぬ事は選ぶ事ができるって台詞がありました。そうですね、
その通りです。そうした「無情」に関わる事を思ってる訳でもないんですけど、
どこか日々で見逃してる事があるように思うようにも鳴ったのも本当です。

今は北の方に遊びにいける場所があるので、そこでは盛大に「木の根っこ」を
半日かけても焼けきれなかったり、終日薪ストーブが火を灯し続ける風景が
あります。で、やっぱり見てるんですよね、火を。

延々見ていられる、あれってなんなんでしょう。見てる、というより、
「そこにいる」感の方が強いかもれない。寂しくも嬉しくも悲しくも楽しくも
ないんですよ。でも「見終わるまで、いよう」っていう力が、火には宿って
いるんだと思う。もちろんそんなの仲間とやってる訳でもないんですけど、
なんか、ぼうっと「やっとできる」かんじがしてるのです。

火を見るというときは、焼いているときです。元の形のものが真っ黒になって
火にまみれて、白くなって、灰と化し、ちりじり散る。
ものがあって、火がついて、燃えて、別の灰になって、風に乗る。
元、火のあったところには焦げ後しか残らず、ほぼ「なにがあったか」の
痕跡は残らない。

一連の「風に四散する」までが「本来のあり方」なんだと思いました。
ものも、人も、きっとそうなんでしょう。最後は四散します。跡には残らぬ
燃え方をして、なくなっていく。

「ゴミ箱まで」しかみえない「なくなり方」というお別れでは、きっとなにか
足りないんですよ。「ゴミ箱から先は知らない」生き方でいるのは、
「そっから先」が「不明」なまま生きてるって事なんです。

見ないまま、知らないままで過ごす、という項目が増えすぎちゃってるのかも
しれません。「ことのいきさつ」はこの世にあるうちの、形ある時間。
いつかはなくなるんですけれど、形のあるうちを、しまいまで見届けるほうが
心は座りを見せるんだと、火を見るたびに思ってる気がします。