作成日: 20/06/19  
修正日: 20/06/19  

倍音

本質的なサスティナブルについての考察


幼少の頃から奇をてらった行動をしたがるみたいに扱われ、あまのじゃくめいた
言動を非難されたりするたびに、いやいやそうじゃないんだけどって常々そのときに
まだ持ち合わせていなかった語彙や言い回しに、子供心ながらに口惜しい思いを随分
抱いて参りましたが、苦節50年、適切な作家に出会ってしまえば、なんのことはない、
すでに言語化されて、体系化されて、自分が言うに言えなかったことが結実してるのに
出会えて「そらみたことか!」と心密かに喝采を送るなんてことが、人生にはままあります。

こと、内田樹(たつる)先生の本にであってからは、まさにそうしたタームとの出会いが
連発しまして、ああ、なんで私はもっと早く先生の本に出会えなかったのだろうかと
モンドリをうちながら悔しがったものです。学生時分に読んでたら、進路変えてたかも。

そうした鮮烈な思いは、読む本ごとに起こっておりますので、ブログなりエッセイなりで
ちらほら吠えているんですが、今回は内田樹先生の「最終講義」より「4.ミッション
スクールのミッション」内で語られる「倍音」に因んだフレーズにしびれました。

詳細は私の語彙よりも、先生の本をお読みになった方が、適切で分かりやすいので割愛
いたします。大いに省略してかいつまみますが、「倍音」を聞いていると、人はその
音響の中に「自分に向けたもの」だと感じるフレーズを見つけて、これは自分のための
音であると認識する、という部分がありました。この感じがすごく「そうそう!」って
なりました。

以下にその引用

「倍音というものは、温室も音量もリズム感も身体の作りの違う人たちが同時に声を出すから
 倍音が出てくるんです。全員同じ声の人たちが声を揃えたら、倍音は出てこない。
 つまり、学びの場で倍音の声が出てこないという事は『自分が学ばねばならない唯一の事が
 ここにある』という種類の『妄想』が育たないという事です。

 私のためにこの学校があり、この学校のこの学部のこの学科のこの先生がずっと昔から
 私が来る事をずっと待っていたのだという幸福な幻想が持てないという事です。

 みんなのために作られた学校ですから、どなたのニーズにもお応えできますよと言われて、
 『ああ、それは嬉しい』と思う子はいません。『みんなのための学校』というのは
 『ここにいるのは、あなたでなくてもいいのだ』ということを告げている学校でもある
 わけだからです。『あなたなんか別にこなくても構わない。だって代えはいくらでも
 いるんだから』というようなことを宣伝するところに、胸を夢で膨らませて学びにくる
 学生がいるでしょうか。」

以上引用。

先生は学校はニーズがあって設立するものではなく、「教えたい」人が先にあって、
そのおせっかいに「なんだかおもしろい」と同調する「なんだか分からないもの」に
飛び込む生徒や、それを許す親御さんがあって、成り立ち始めるのが本来であると、
この本に書いていました。昨今の「ニーズに応えて」の着眼点で学校を語ると、
それはどこまでも「ニーズに対して後追い」の存在でしかないとも。
こうも先生は書いています。

「人間の知性というものは、効能が分かったことに対しては発動しないんです。これを
 勉強すると、こういう『いいこと』があるよと報酬を示されて動くような知性は
 知性じゃないんです。人間の知性が活発になるのは、『これを勉強したい』のだけれど、
 どうして勉強したいか『わからない』というときです。」

うう、惚れますよ。いい言葉のオンパレードです。ジャストミートです。

同質的なものは揃っていて大量で効率的であっても、それは駄目になる時、その特質上
一斉に倒れてしまいになるだけであり、生き残りをかける生物としては、その多様性の
確保、肯定がなされなければ、存続が危ぶまれるって偉い人は言うじゃないですか。

多彩であり、ユニークである事は志されていいと私は思うのですが、少なくとも
高校生までにそうした教育には一切触れられませんでした。私が聞きたい方向の教育が
愛知県に育ったこともあるんでしょうけれど、とっかかりにも出なかったのです。
幸い大学で、そうした要素にふんだんに触れられ、「ほうら、やっぱりそうじゃん。
すっげー楽しいじゃん。スッゲー広いじゃん」と嬉しかったのを覚えています。

同質的なものが、同じ目標に向かって、個々の単位での思索は敢えて横において、
一斉に立ち向かっていくという「三河武士」的な強さは、まさにトヨタの企業風土
に出ています。個々には弱くても、外側には強靭に作用します。ですから強いです。
でも「内側」では死にます。狂います。私は、この風土がどうにも駄目です。

車を見て下さい。白色か、銀色という「転売時に高額で取引される」車種がなんと
町中に多い事か。同じ理由で黒色の車も多いのです。企業サイドもそれを推奨します。
つくづく嫌なのです。自由発想を擁護する人は、喜んで県を出て行きます。それしか
自分の思索を、思いつきを、大事にする手段がなかったからです。無言の同調圧力も
自覚なしに発揮されています。ですから「外側」の人からは、その無味乾燥な存在の
仕方が「面白くない街」で頭角を示せた形で露見しています。自分たちでもはや
その自覚を失っておるのです。由々しきかな由々しきかな。

今、コロナ禍で日本がそうした「大規模な、想定外な事態」に対面しているときに、
上述にある「勉強すると、こういう『いいこと』があるよと報酬を示されて動く」知性で
出来上がっている官僚バックアップの政府では、もはや太刀打ちしたようには見受けられ
ませんでした。「前例がない」ことに立ち向かえる素養があってこその政府が、
「前例がない」から準備もできないじゃん、と態度に表れちゃうような政府になってますし、
「ニーズに合わせた勉強」から始めた「常に事後に応じる」マインドセットが
事前に事を小さくおさめる想像力を失ってしまっています。

ですから、総理が「国民を元気づける」言葉が一切発せられなかったのです。
もっとも国民が励まして欲しい時に「後々の事」の準備にいそいそと明け暮れて、
目の前の「不透明な事態」に際し、なんの鼓舞も、支援も、できませんでした。
全部「事後」でした。同時進行生の励行があれば、被害はもっと迅速に縮小でき
人々に発揮できる思索が設けられたはずです。いうなればそれらを「阻止」したのは
人々一斉の、同じ人間が発した声が、全く「倍音」を生める環境になかったからだと
私は憂います。そう思いませんか。

私自身も「多くの人の中から」私を見つけに来た人には、おおむね惚れています。
ですから、私も多くの人の中から、見つけて惚れる人でありたいのです。